五
佐賀藩は幕府直轄領の長崎に近いこともあり、外国の文物がよく入ってきた。それが開明的な藩風を形成する因となったのだが、実は痛みを伴う経験を経たことも、それに寄与していた。
この時をさかのぼること二百十六年ほど前の寛永十七年(一六四〇)、ポルトガル船が通商を求めて長崎に来航してきた。幕府は前年、第五次鎖国令としてポルトガル船の入港を禁じたばかりだったので、使節一行六十一名を処刑した。そんなことをすれば当然、報復が予想される。
そのため翌年、幕府は筑前(福岡)藩黒田家に長崎港警備を命じる。これが「長崎御番」の始まりとなる。ところが、筑前藩だけでは負担に耐えられないという泣きが入り、寛永十九年、佐賀藩鍋島家にも「長崎御番」が命じられた。両藩は一年交替で御番を務めることになり、その当番年には、一千余の兵を長崎に駐屯させねばならなくなった。これにより両藩は、藩財政が傾くほどの過大な負担を強いられていく。
それでも百六十八年余にわたって長崎は平穏無事で、御番も形式的なものになっていた。その平穏が吹き飛んだのが、文化五年(一八〇八)のイギリス軍艦フェートン号の来航だった。
イギリスはナポレオンの支配下に入ったオランダと交戦状態に入ったことで、アジア各地のオランダ商館を接収し、また商船を拿捕するなどしていた。その一環として、長崎におけるオランダの権益を奪おうとしたのだ。