「八太郎さんは、『葉隠』の『武士道というは、死ぬことと見つけたり』という一節を、とくに嫌っておりましたな」
「ああ、嫌っていた。死んでしまっては何も見つけられん。人は見つけた先にあるものを、生きて追い求めねばならん」
「その通りです。それでも八太郎さんは、薩長出身者以外で初の総理大臣となった。それでも何も見つけられなかったと言うのですか」
大隈は笑みを浮かべて首を左右に振った。
「そんなものは、たいしたことではない」
「政治を国民の手に取り戻したことが、たいしたことではないと——」
「うむ。まだ道半ばだ」
久米がため息をつく。
「八太郎さんは最後まで反骨を貫くんですな」
「ああ、そうだ。それ以外、わしには何の取り柄もないからな」
大隈が真顔になる。
「そろそろ若い者に席を譲られたらどうですか」
「分かっている。この国の若者は強くて賢い。彼らが学べる学舎も築けた。そろそろ、わしもお役御免だ」
「どうせ私も、すぐに後を追い掛けることになります」
「そうだな。だが丈一郎はまだ元気そうだ。この国のために働ける限り働いてくれ」
この時、いまだ久米は、早稲田大学で古代史や古文書学の教鞭を執っていた。
「分かりました。学びは死ぬまで終わりませんからね」
「ああ、人は死の瞬間まで学び続けねばならない」
大隈が目を閉じる。
「疲れましたか」
「少しな」
「何が見えます」
「会所小路にあった旧宅だ」
大隈の口元が緩む。
その旧宅の離れの一室で、大隈や久米は、互いの情熱をぶつけ合っていた。それは、二度と戻らないからこそ貴重な若き日の思い出だった。
大隈の脳裏に、口角泡を飛ばして議論を戦わせていた仲間たちの顔が浮かぶ。
「いろんな奴がいたな」
「はい。副島さん、江藤さん、島さん、大木さん、みんな鬼籍に入ってしまいましたな」
大隈にとっても久米にとっても、あの一室こそが若き日の象徴だった。
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