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人類が死体に初めて献花した記念としてサンドイッチにパセリ
多月先生はピアノの先生で、家の離れの温室にアップライトピアノがあり、そこで生徒に教えていた。
温室にはパセリの植木鉢が隙間なく置かれていて、少しくらいの風邪なら治ってしまいそうな薬っぽい匂いに満ちていた。
わたしはハチャトゥリアンの「剣の舞」を、もう三年間弾き続けていた。十歳から始めて、今年中学生になった。わたしは発表会に出たことがない。出してもらえていない。多月先生によると、「剣の舞」が完成したら出られるのだそうだ。
わたしは、譜面通りに弾けているはずだった。だから、これ以上どうすればいいのか分からず、ピアノの前で泣き出す。鼻水も出てくる。それをカーディガンの袖で拭こうとすると、多月先生は「汚い!」と叫び、持っていたタクトでわたしの手首をピシャッと叩く。またミミズ腫れが増える。
「まるで違うのよ。速さが!」先生は言って見本演奏をする。
その時、わたしは剣の舞を見た。
わたしの演奏の十倍くらいの速さの演奏。
本当に剣が舞っている。それが見える。
楽譜を読んでいただけでは見えなかったものだ。
わたしは、三年間の努力が全て無駄だったと知り愕然とした。
「この速度が剣の舞なのよ」
先生はわたしを睨みつける。わたしは冷や汗を感じながら、パニクらないように深呼吸する。先生の言っていることは、わたしも十分分かっている。だから、何も言葉が出てこない。血がバクバク体内を走る。このままだと口から血が噴き出してしまう。
パセリの匂いがして、それだけを嗅ごうと意識すると、心拍がゆっくりになり、やがて落ち着き出した。
緑の国が見える。取り乱したりパニクったりすることが決してない、落ち着きの国だ。
平和とは落ち着きだ。あそこに行きたい。あそこで生きて死にたい。見えたのだから、いつか行けると思う。あるから見えるのだと思う。幻とは遠い未来のことだ。
「すみません、努力します」
多月先生の目を真っ直ぐ強く見ながら言うと、
「そう、嬉しいわ」
と先生の眉間の皺が消えた。こういうのが、平和だと思う。
わたしは、先生の期待に応えるため努力した。そうして二十歳になった。
わたしは初めての発表会に出ることになった。中世の騎士の衣装を着て、わたしは市の文化会館の小ホールの舞台に立っていた。
グランドピアノを弾くのは初めてだった。けれど騎士の衣装の首の所に詰めたパセリの匂いを嗅いで落ち着く。緑の国が呼んでいる。この演奏を完璧に終えたら、あそこに行ける。そのために、わたしは生きてきた。
演奏を完璧に終えたわたしは緑の国にいた。そこは何もかもが緑だった。パセリの森の中だった。呼吸をしているだけで、生きているだけで、一日中平和だ。こうなるために、わたしは生きてきた。
緑の太陽が上ったら、緑の泉に緑の水を飲みに行こうと思う。
親指と人差し指でパセリから小文字の peace や perfect を摘む
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