私のわがままはみんなの「それな!」

社会運動というと「近寄りがたい」イメージを持つかもしれません。社会運動も「権利を主張する、意見を言う」方法のひとつですが、なぜそれが、近寄りがたいものだと思われるのか? ここからは「わがまま」と社会運動をつなげることで、声を上げることへの抵抗感について考えます。桃山商事さんとの座談会「恋とか愛とか社会運動とか」と合わせてお楽しみください。(毎週水曜更新)

ここで、話を「わがまま」に戻してみましょう。みんなに「ふつう」が浸透していた時代であっても、苦しみはいろいろなところに存在していました。

たとえば1960年代以降の社会問題に公害問題があります。社会科で習う水俣病やイタイイタイ病などが有名ですね。第二次産業が発達して、産業化が進んだことで、工場の出す排水や大気の汚染が深刻になったのです。公害はしばしばその地域に住む人の健康を害しますから、企業や政府に対して声を上げた人々、つまり「工場を動かすのをやめてくれ」とか「健康に被害が出たから補償してくれ」といった形で、「わがまま」を言った人々も数多くいました。

こう考えるとすこし不思議じゃないでしょうか。どうして昔の人は、今よりもっと「ふつう」や「中流」という意識が強かったにもかかわらず、他人から浮いてしまうことを恐れずに「わがまま」が言えたんだろう。昔の人は今のみなさんより政治に関心があって、反骨精神があって、ひとりでも、浮いてしまっても頑張って意見を言っていたのでしょうか。じつはそうではないんです。

工場はある特定の地域に建てられて生産活動を行いますから、工場の排水や大気汚染の被害を受けるのは、同じ地域に家を買って、近くで働いて、その場所にずっと住むつもりの人々です。だから、この地域に住む人々は、同じような被害を受けていることに加え、長い時期にわたって被害を受けること、問題解決への意欲があることは、お互いにすぐにわかるわけです。

そうすると特定のだれかが「わがまま」を言ったとしても「そうだよね、こんなに空気が汚いならフツーに抗議するよね。私たちの子どもにも影響があるかもしれないし。私もしようかな……」というように、その苦しみを「ふつう」のものとして理解できます。「わがまま」は言った人ひとりのものではなく、少なくとも今より悪目立ちしているとは思われなかったんじゃないか、というのが私の考えです。

***

ここまでの「わがまま」は住民運動と呼ばれる社会運動ですが、もうひとつ、この時期に盛んだった運動に「女性運動(フェミニズム運動)」があります。この時代の女性は、短大や大学を出て就職をしても、20代のうちにやめて「お嫁さん」、つまり専業主婦になることが多かった。だからたとえ仕事をしても、いわゆる「腰掛け」と呼ばれる、すぐにやめることを想定して仕事をする存在としてしか認められないような、「いつかは家におさまる女性」だったのです。

こうした女性に対する差別や不平等をなくそうというフェミニズムの思想が普及し、生まれたのが「フェミニズム運動」でした。

専業主婦が「不平等」というのは、今からするとすこしイメージしにくいかもしれないので、補足しますね。この時代の女性の社会運動は、外で稼ぐ男性を支えて家事労働をする女性を家から解放するための、ちょっと難しい言葉を使うと、社会という「枷(かせ)」から女性を解放し、外で働くもよし、家で家事をするのもよしと、女性が好きな生き方を選べるようにするための運動でした。

フェミニズム運動もやはり、さきほど例にあげた住民運動と同じで、「女性はこういう苦しみを抱えているもの」と多くの人に想像がつきやすかったから、今ほど「わがまま」とは思われなかったわけですね。

つまりそのころは何かの不平に基づいて「わがまま」を言うことが、他の人の苦しみを解決することと結びついていました。自分の後ろにはこれだけ地域の住民や女たちがいるということが明確で、「わがまま」を言う背後に同じ苦しさや窮屈さを持つ人が、社会のなかで層として存在していた。「女だから、苦しいの」と発言したときに、男性のように仕事をできなくて苦しい、あるいは専業主婦で「だれだれの奥さん」としか呼ばれないことが苦しいというイメージが、ある程度共通してあったのですね。つまり、「わがまま」を言えばすぐ、自分と同じような状況にあるみんなが「それな!」と反応してくれると想像がついた

こうした状態を「利害を共有する」と言いますが、今はその利害が、人々の間で簡単に共有されなくなっているわけです。

たとえば地域の問題ひとつとっても、現代においてみんながみんな、その地域で同じ仕事を続けるとは限らない。違う仕事に就けば別の地域に行くかもしれないし、結婚をするとも、子どもができるとも限らない。家を買ったとしても、単身赴任でろくに帰ってこない人もいる。そういう人にとっては、地域の大気汚染はそれほど大きな関心事でないかもしれない。だから、地域の問題に「わがまま」を言ったとしても、みんなが「それな!」と言ってくれるとは限らない。

それに対して、人々の生き方が多様になり、個人化がそれほど進んでいない時代には、ある程度固定化された、中流的な「ふつうの」生き方—これを「ライフコース」と呼びますが—が存在していた。

だからこそ、この年齢において、この性別で、この社会的立場だったとしたら、こういう苦しみを抱えているだろう、と想定しやすかったわけです。

今のわがまま・昔のわがまま

社会がどんどんグローバル化していって、個人化するとどうなるか。

なんとなくみんなのなかで「ふつう」はあるんだけれども、じつは皮を一枚めくってみると全然違う生き方をしている私たちがいる。これまでは同じ地域に住んでいるとか、同じ性別であるとか、同じ職業であるとか、そういう要素(「出自」や「属性」と言ったりします)が同じなら、同じ生き方をすること、同じ苦しみを抱えることを想定できたけれど、個人化の時代はそうはいかない。たとえ同じ空間、時間を過ごしていても、同じ学歴や年代や家族であっても、まったく異なる経験をしていて、まったく異なる苦しみを抱えていることはめずらしくない。

こういう場合、たとえ苦しみを抱えていたとしても、その苦しみが「他人に簡単には理解されないんじゃないか」という危機感を持ってもいる。そのくせ「ふつう」という幻想だけは昔と変わらずばっちり持っちゃってるから、どんなに苦しくても言い出せない。

もちろん現代でも、私たちは苦しみを抱えているし「わがまま」を言えばそれなりの数の人と共有できる。それがうまくいった例に、近年流行した「#MeToo」運動があります。

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みんなの「わがまま」入門

富永京子

「権利を主張する」は自己中? 言っても何も変わらない? デモや政治への違和感から、校則や仕事へのモヤモヤまで、意見を言い、行動することへの「抵抗感」を、社会学の研究をもとにひもといていく、中高生に向けた5つの講義。身近な「わがまま...もっと読む

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gekko_mo 「異なるからこそ団結できず、本来同じような被害を受けているはずの他人に優しくできないことも、苦しみを簡単に共有できない個人化の弊害と言えるのかもしれません。」 https://t.co/Mf6VCetA44 3ヶ月前 replyretweetfavorite

sayusha 【連載】『みんなの「わがまま」入門』のcakes連載第4回🎂 「みんなに共通の利益」「みんなに共通の被害」が想定できない社会で、「声をあげる」ことはどう捉えられるのでしょうか。 https://t.co/h0Weguoc2f 3ヶ月前 replyretweetfavorite