ここまでお伝えしてきた「わがまま」と、密接な関係を持つのが「社会運動」という行動です。社会運動というと何か「怖い」とか「近寄りがたい」イメージを持つかもしれませんが、社会運動は自分や他の人が困っていることやモヤモヤしていることについて、解決したり、その困りごとについて広く知ってもらうために声を上げることですから、「わがまま」にとても近いのです。ここからは社会運動の理論を用いながら、「わがまま」についてより広い視野で考えてみます。
後で説明しますが、日本は他の国と比べて「わがまま」に厳しい国だという社会運動の調査結果が出ています。それぞれに生活の中身が全然違うにもかかわらず、一見するとみんな「ふつう」に見えてしまう状況があるから、つい他人の「わがまま」に厳しくなってしまう。ではなぜ日本人は、自分たちが「ふつう」だと、これほどまでに考えるようになったのでしょうか。
ふつうと平等はどこへ消えた?
社会科や政治経済の授業で、「一億総中流(国民総中流)」という言葉を習った人がいるかもしれません。もう60年近く前になってしまいますが、1960年代に「高度経済成長期」を経て、日本はどんどん豊かになっていきました。
そのなかで、目に見えて貧しい人、大変な目に遭っている人は(もちろんその頃にもいたのですが)「ふつうの」市民の生活からは見えなくなっていき、国民のだれもが「中」くらいの生活をしているという、一億総中流の意識が形成されたのです。なんと70年代には、日本の9割の人々が、自分の暮らし向きが中くらいだと答えています(内閣府「国民生活に関する世論調査」)。
なぜここまで私たちは中くらい、すなわち「ふつうの生活」を信じられるようになったのか。理由はいくつかあるかもしれませんが、収入が増え、ふつうの人たちがふつうに持つもの(いわゆる「三種の神器」であるテレビ・洗濯機・冷蔵庫)を多くの人が購入できるようになったことがひとつ。また高校の進学率が急激に伸び、90%以上で安定するようになったのも70年代後半です。
ちょうどみなさんの保護者の方——といっても、年齢はさまざまでしょうが——が生まれた前後くらいの時期に、日本に住んでいる人は、みんな「中くらい」なんだという意識が形成された。そこから「みんなふつう」という感覚が形成されたと考えることはできるでしょう。
みんな気持ちとしては「ふつう」のはずで、だからこそ「ふつうから逸脱したくない」、「わがまま言うのはダメだし、言われるとイラッとする」という感覚が生まれる。そう考えると、この時期に「ふつう」でありたいという意識が生じるのは、それなりに納得できるところでもあります。
ただ、いくらみなさんが、過去の日本のように「ふつう」があると思いこんでいたとしても、今の日本社会の構造は、1970年代とは大きく変わっているのです。
グローバル化で「ばらばら」に
私たちは今の時代、どんどん違っちゃってるんです。それは「ふつう」がなくなっていく原因にもなっています。なぜ違っちゃってるのかという理由はいくつかありますが、ここでは政治・経済の「グローバル化」を取り上げます。
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