「ふつう幻想」が「ずるい」をつくる
「ふつう」がどこにもないんだ、ということを知ったうえで、もう一度「わがまま」について考えてみましょう。
クラスの友だちは、おおむね自分と同じに見える。でもじつはそれぞれに違いがあります。つまり隣の人が自分と違うにもかかわらず、「ふつうはこうする」というなんとなくの標準がある。私たちはこうした「ふつう幻想」を抱いてしまっています。
そして「ふつう幻想」に沿っていない人の行動を、私たちは個人的で自己中心的な「わがまま」だと思ってしまいがちです。
同じに見えるなかでの異質さはみなさんの家庭にも、クラスにも、友人関係にも仕事でも、いろいろなところに当たり前にあります。人によって大切にしているものやできないことが大きく違うけれど、そのことは明らかにされない。だからある人の要求や権利が、他の人にとって「わがまま」だと感じられる、そういう場面に出くわすことがしょっちゅう起きるのです。
私(富永)は大学で講義をしていますが、授業にきちんと出る真面目な大学生は、アルバイトばかりして講義に出ない学生を不真面目だと思っていたりする。たとえば「あの子は、夜遅くまでアルバイトをして1、2時間目の授業に出れないというけど、それはなまけているだけじゃないか」とか、みんなで協力してやるような授業だと「あの子の遅刻のせいで授業が遅れて迷惑だ」とか「出席していないのに他の人と同じ成績を取れるのは不平等じゃないか」という声が上がるわけです。
私は大学の先生ですから、アルバイトで遅れてしまう人のために配慮することも、できなくはありません。たとえば、1時間目に出られない人のために、出席しなくても単位(中学校や高校で言うところの成績のようなものです)を与えられるようにしたり、夜中に予習復習できるようにノートをオンラインで公開したりする。そうすれば、授業に出なくても勉強することはできます。でも毎回朝早く起きて真面目に学校に来ている子は、こうした配慮を「特別扱い」と捉えて「自分は面倒くさくてもちゃんと出席してるのに……」と反発するかもしれません。
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この反発の裏にも、「ふつう幻想」が関係しています。それはどんな「ふつう」なのか、すこし考えてみましょう。
同じ授業に出席している人は、全員「受講生」「学生」という立場です。でも、その背景には全然違う生活がある。私立大学に通っている京都の大学生はだいたい「みんな」1ヶ月に10万円前後くらいの予算で生活しています。ところが、「10万円前後で生活している」という前提が同じでもその内訳が違う。全部奨学金(この奨学金は、多くの場合、将来返さなくてはいけないお金です)でまかなっている人もいるし、保護者からの仕送りで生活している人もいます。月々10万円で生きていることは変わらないのですが、家の経済状況とか、バイトに何時間使わなくてはいけないとか、そういう違いがその裏に隠されているのです。
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