五月頃に駿河路を通ると、茶の、得も言えぬよい香りが漂ってくる。茶の栽培が盛んだからである。ここはあの有名な東海道である。東海道はほんとうによいところだ。名所も多いし、伝説や言い伝えも数えきれぬほどある。そんな中でもっとも有名なのはやはりあの羽衣伝説であろう。そのなかに出てくる羽衣の松、それと同じくらいに有名でいまでもその名前が残っているのが、あの東海道で一番、と言われた清水次郎長である。その清水次郎長の生い立ちの物語を今日も語っていこう。
あの勇敢な廻船問屋の主、雲不見三右衛門の三子として清水次郎長が生まれたのは文政三年の正月元日。このとき、三右衛門と親戚の者の間である話し合いが持たれた。
多くの意見が出た。その間、三右衛門は目を閉じ、黙って腕組みをして聞いていたが、ついに目を開くと言った。
「よし、決めた」
「どうしなさるんで」
「こいつは養子に出そう」
父親である三右衛門がそう決めた、まして雲不見と言われる三右衛門がそう決めたのならもはや周りの者は口を出すことはない。
「そうしなされ」
「それがよかろう」
とみな賛同して帰っていった。
赤子はなぜ藁の上からそのまま養子に出されたのか。それは当時、正月元日に生まれた子供は将来、途轍もない賢才になる。ところがもしそうならなかった場合は極悪人になる、と云う言い伝えがあったからである。
もしこれが現在だったらどうなっただろうか。「いや、私はそんな言い伝えなんて信じませんよ」と言って無視するだろうか。
そうではないだろう。多くの人が、
「まさか、この私の子供が極悪人になる訳がない。ということは? 素晴らしいことだ。私の子供は途轍もない賢才になる」
と夢想、これを手元に置き大事に養育するだろう。
ところが昔の人は謙虚で、そんな思い上がったことは考えない、
「こんな私の子供が賢才に育つはずがない。ならば、きっと極悪人になる。恐ろしいことだ」
と考えた。そのうえ三右衛門には既に継嗣たる長男がありさらには次男まであり、もう男子は要らない。「ならばなにもわからない赤子のうちに養子に」と考え、他家に出したのである。
そして赤子は三右衛門の妻とよの弟、次郎八のところに養子に出された。次郎八は三右衛門と同じく清水港で甲田屋という米問屋を営んでいた。
次郎八、商売は順調で儲かっていたし、直という若い美人を妻に迎えて順風満帆であったが、ただ一つだけ頭を悩ませていたのが、跡継ぎのないことで、以前から、「妹とよが生む子が男子であれば養子に呉れないか」と三右衛門に懇望していたのである。
つまりこれは双方にとって渡りに船の話であった。
話まとまって赤子は甲田屋にやられ、次郎八によって長五郎と名付けられた。
米穀商・山本次郎八の長子、山本長五郎となったのである。
ただ此処にひとつの問題があった。
というのは、もしかしたら極悪人になるかも知れない、という問題である。
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