※※※この連載が書籍化します。8月27日発売。九螺ささら『きえもの』※※※
紫のしずくが数滴空に落ち朝焼けは滲んだ醤油の味
日曜日の晩、新しいお隣さんが引っ越し祝いだとタオルを持ってきた。引っ越し祝いは引っ越した人がもらうものなのにと違和感を感じたが、ニコニコしているのでついもらってしまう。「シンキバタダシです」と言いながら、新木場正と印刷された名刺を渡してくる。
イントネーションが日本語を学び始めたばかりの外国人のようだった。けれど外見や名前は日本人。それがちぐはぐ、という印象をわたしに与えた。
翌日会社から帰宅するなりインターホンが鳴る。わたしの帰宅を待っていたようで嫌な気分になったが、インターホンの画面にはまた新木場さんのニコニコ顔が映っているので「はい」と答えて玄関のドアを開ける。
「お醤油貸してください」
健康そのものの笑顔で彼は言う。お醤油貸してください? 平成も終わった二十一世紀に? やはり彼は外国から来たのではないだろうか? 忍者がまだいると信じている時代錯誤の……。
「お醤油ならコンビニに売ってますよ?」
「でももう十一時過ぎてますから」
それはこっちのセリフだ。
「コンビニは二十四時間営業ですから」
頓珍漢には頓珍漢な応対でいいだろう。
「いやでも、必要なんでやっぱりお醤油貸してください」
「何に使うんですか?」
「シューマイにつけるんです」
「シューマイに付いてなかったんですか?」
「僕、今日シューマイ手作りしたんですよ。食べますか?」
「要らないです」
「なのでお醤油貸してください」
結局このフレーズに戻るのか。時間の無駄だ。わたしは諦めて、買い置きをしていた携帯用の醤油のミニボトルを彼に渡し、
「返さなくていいですから、あげます。引っ越し祝いです」と言った。彼は目を輝かせて「ありがとうございます」と頭を下げ、自分の部屋に帰っていった。
火曜日の夜、やはり帰宅したとたんインターホンが鳴る。「何ですか?」とインターホンで聞くと「お醤油返しに来ました」と言う。舌打ちしそうになった自分を抑え、「返さなくていいです」と冷静に応える。
「いえでも、倍返しですから」と真面目に言ってくる。
こういう感じが、やはり外国から来た人っぽいのだ。言葉の使い方が微妙に間違っている。知識としてはあるがまだ血肉化していない。おまけに善行を成しているつもりだから、引き下がらない。いわゆる困った人なのだ。
わたしは、疲れた心身を引きずって玄関まで行き、「手袋を買いに」の子ギツネのようにドアから手だけ出して受け取ろうとする。
すると悲鳴を上げてしまった。
想像していた醤油のミニボトルとはまるで違う何かが手に押し付けられたのだ。
ひんやりした、滑らかな塊。
震えながら手を戻すと、ぴくぴく動く夜が載っている。日本の夜ではない。砂漠の夜だ。
乾いて冷えて、孤独な夜。
それが急速に細胞分裂を繰り返し、加速度的に膨らんでゆく。乾いているのだけれど静かな弾力のある生命力に満ち、体外受精された別惑星の生物のように、予測不能の速さで暴力的な膨張を遂げる。手のひらの上から縦横無尽に拡大して、地平線まで拡がった夜は全体を一気に呑み込んだ。
玄関だった場所が、星の砂漠の夜になる。
わたしはコヨーテの鳴き声を聞く。
砂漠に人間はわたしだけだ。わたしは逃げる。けれど東西南北が分からない。どっちに行けば人がいるのか見当がつかない。
「こっちです」新木場正の声がする。その声を信じるしかない。人が恋しい。
声に導かれて夜の深みにはまってゆく。目をきつく閉じて進んでゆく。目を閉じると、それだけで強く願っているようだ。視覚を遮断すると、動物になる。感覚が鋭敏になって肉体が素直になる。
魂が裸だ。
「もっとです」
彼の言葉だけを信じ、わたしは深く奥へ落ちてゆく。
一滴が一音になる四分音符醤油の滴は夜の旋律