帰りのエレベーターで岩瀬と乗り合わせた。桜子の会社は七階と八階、岩瀬の会社は十一階だ。桜子がエレベーターに乗り込むと、彼は同僚らしき男と楽しそうに話していた。ちらりとそちらに目線をやり、胸の前で小さく手を振った。岩瀬は顔をひきつらせ、動揺を隠そうともしなかった。
——そんなに怖がらなくたっていいのに。たった一回、なんかあったからって変な期待なんかしないわよ。
口には出さなかったが、そのままメールに書いて、一階に着くなり送信した。小麦の値上げやら新メニューやらで、こっちは忙しいんだから。
岩瀬の携帯電話が着信を知らせると、彼はあわてて身体じゅうのポケットに手をやった。同僚は、軽く手をあげ、早足で歩いて行った。桜子も早足でビルの外へと向かった。
横断歩道に差し掛かったところで、ぐいと肩をつかまれた。岩瀬だった。
「なんなんですか、このメール」
「書いてある通りよ」
「ぼく、坂下さんのこと怖がっても避けてもないですよ」
冷たい風が首筋を撫でる。
「じゃあ、一杯つきあってくれる?」
売り言葉に買い言葉のようなやりとり。桜子の言葉に、一呼吸おいてから、岩瀬はうなずいた。駅前の居酒屋に入り、競うように焼酎を飲んだ。
「ほんとに、あれ、酔った勢いだけじゃないから」
「じゃあ、何なの? テキーラの前から私のこと、口説こうって思ってたわけでもないでしょう」
「まあ……、そうだけど。でも、これからちゃんと考えます」
「考える? 何を」
「ぼくたちのこと」
「いいんだって。そんな無理しなくたって。しょっちゅうではないけど、大人にはたまあに、あることよ」
結局、岩瀬はまた酩酊して、桜子の部屋に上がり込んだ。水も飲まずに、ベッドに直行した。
「ねえ。好きだよ。ほんとだよ」
岩瀬の甘い言葉も前戯のうちと受け止めた。
「最高に色っぽいよ。そそられるよ」
岩瀬は桜子の中に入ってきても、ささやきをやめようとはしなかった。桜子もそれに酔った。
岩瀬は鼻歌を歌いながらシャワーを浴び、タクシーで帰った。桜子は、まだ岩瀬の体温が残っている少し湿ったシーツの上で、これきりにしよう、と思った。次もあったらきっと情がわく。仕事の話も出来ない男を好きになる気はない。
午前三時を過ぎても、なかなか寝付けなかった。しかたなくベッドを抜け出して、ボウモアの水割りを作った。私は自由だ、と思った。そう、自由にしがみついている。必死に。
やっと眠気が襲ってきたのは五時近くだった。
汐留店のオープンは一ヵ月後に迫っていた。大学時代の友人である重美とランチをとっていた。老舗の呉服屋に嫁いだ重美とは、平日の昼間しか会えない。
丸の内にあるフレンチ・レストラン。重美はコースの内容を一品一品確認して、あれこれと迷う。
「どうしようかなあ。Bコースの鴨も食べたいんだけど、でもなあ、Cコースのオマール海老も捨て難いしぃ。ごめんね。私、桜子と違って、外でゆっくりランチできるチャンスなんて、ごくたまのことだから」
「そう? このあいだもリューズに行ったとかいってなかったっけ」
「主人の接待につきあわされただけよ。お得意様と一緒で好きなメニューなんて選べるわけないから、せっかくのリューズも楽しめない」
言葉のわりに、嫌そうな口調でもなかった。ウエイターは重美がメニューを置くのを待ち構えている。
「私の鴨、少しあげるから、思い切ってオマール海老、頼んじゃいなさいよ」
「うん。そうする。サンキュー」
隣のテーブルは、高そうなスーツを着込んだ男が四人。きっとビジネスランチだろう。反対側には、中年の男と親子ほど年齢が違う若い女がシャンペンのグラスを重ね合わせている。若い女は後頭部を思い切り膨らませた髪型だった。
二人の後ろ側には、自分たちと同じぐらいの年齢の着飾った女が三人、子供が三人座っている。嫌な予感がした。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。