酔った勢いでしてしまったのはいつ以来だろう

部長に出世をほのめかされ、気持ちが少し高揚した40歳の桜子。開発中の「チョコレート・パスタ」の市場調査のために、同じビルに勤める26歳の営業マン・岩瀬をメキシカン・レストランに誘う。気づくと2人でコロナを6本、テキーラを5杯も飲んでいて……。
「産む性」として揺れ動く女性たちの心の葛藤とそれぞれの人生の選択を描いた8つの短編集『産む、産まない、産めない』より特別公開。

「私、なりふりかまわない感じ?」

「うらやましいですよ。そういうふうになれる対象があって」

「岩瀬くんも一生懸命やってるうちに、楽しさがわかってくるわよ。仕事の醍醐味って、うきうきわくわくだけじゃないのよね。生みの苦しみがあっての楽しさよ。あとね、どかーん、じゃなくて、じわじわってくることのほうが多いね」

「ふうん……」

 海老のガーリックソテーをのせた皿が湯気をたてたまま、ハラペーニョのピクルスと一緒に、テーブルに置かれた。ピクルスに手を伸ばす。あっという間に酸味と辛さが広がり、口の中が陽気になる。

「うん、これ、いける。うちのサイドメニューにパクっちゃおっかな」

 なりふりかまわず夢中になっている姿そのものだ。岩瀬が笑った。

「かっこいいですよ。仕事に熱くなれる女の人」

 桜子はメニュー開発について、さらに熱く語った。遠慮する筋合いはないし、支払いだってこちらがする。お目当ての「モーレソース」が出てきてからは、テーブルの上にiPadを広げ、気がついたことを細々と打ち込みながら食事をした。

 岩瀬がいった。

「そういえば、昔つきあってた女の子がカレー作ってくれた時、チョコレート入れてましたよ。びっくりしたんだけど、食べてみるとそんなに違和感なかったな。甘辛スパイス、みたいなもんですかね」

 八時半を過ぎると、マリアッチの生演奏が始まった。ギターが二人、マラカスが一人。褐色の肌をした男たちは全員、つばの大きな黒い帽子を被り、カラフルなボーダー柄の長いマフラーを肩から垂らしている。テーブルの前で一曲披露し、また隣のテーブルに移動する。マリアッチのリズムはロウソクの明かりとともに、薄暗い空間を彩った。客の中には、酔いに任せて拍手をする者もいて、店内はライブハウスのような雰囲気になった。

 彼らが桜子たちのテーブルにやってきた。マラカスを持った男がたどたどしい日本語でいう。

「フタリノタメ、アイノウタ、ウタイマス」

 桜子は苦笑した。岩瀬は気にする様子もなく、物珍しそうに男たちを眺めている。自分たちは歳の離れた恋人同士に見えるのか、それとも外国人には日本の女の年齢などわからないのか。楽しそうに身体をゆすり、情感たっぷりに〝愛の歌〟を歌い上げた。演奏が終わると、マラカスの男がCDを差し出した。

「コレ、イカガ、デスカ。ニ、センエン、デス」

 ジャケットには彼らが写っていた。桜子は財布から千円札を三枚取り出した。

「一枚は、今の歌に対する感謝よ」

「アリガト、アリガト」

 男たちは上機嫌で隣のテーブルに移っていった。

 ウエイターが小さなグラスをふたつ持ってきた。

「こちらのテキーラ、さきほどの感謝のお返しだそうです」

「それじゃあ遠慮なく」

 テキーラが舌に染みると、口の中がかっと熱くなる。行ったことのないメキシコの太陽を想像させる。

「うまーい。テキーラって酔いつぶすための酒ってイメージがあったけど、きちんと味わうと、こんなにおいしいんですね」

 岩瀬はそういって、あっという間にグラスを空にすると、ウエイターを呼んでテキーラを注文した。

「さきほどと違う種類のものをご用意いたしましょうか」

「お願いします」

 値段もたずねず、岩瀬が答える。

「そういえば、ぼくアイリッシュ・パブでウィスキー・パスタっていうの、食べたことありますよ。クリームソースとサーモンにウィスキーがかかってるの。けっこう、うまかったですよ。テキーラ・パスタなんて、どうですか?」

「なるほどねー」

 二人でコロナを六本、テキーラを五杯飲んだ。店を出る頃には、岩瀬の足取りはかなり怪しくなっていた。桜子は、空車の赤い文字に向かって手をあげた。

「岩瀬くん、大丈夫? 一人で帰れる?」

「う……。気持ちわるい」

「ええっ。家はどこだっけ?」

「経堂……です」

「経堂かあ」

 桜子の実家の近くだった。高校の後輩である岩瀬は、まだ実家に住んでいるらしい。送っていくには遠過ぎる。仕方なく二人でタクシーに乗り込む。

「運転手さん、ちょっと待ってて。今、行き先決めますから」

「うう、吐きそう……」

「お客さん、勘弁してくださいよ」

 運転手は、振り向いてあからさまに嫌そうな顔をした。

「すみません。じゃあ三軒茶屋まで」

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産む、産まない、産めない

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

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