「私、なりふりかまわない感じ?」
「うらやましいですよ。そういうふうになれる対象があって」
「岩瀬くんも一生懸命やってるうちに、楽しさがわかってくるわよ。仕事の醍醐味って、うきうきわくわくだけじゃないのよね。生みの苦しみがあっての楽しさよ。あとね、どかーん、じゃなくて、じわじわってくることのほうが多いね」
「ふうん……」
海老のガーリックソテーをのせた皿が湯気をたてたまま、ハラペーニョのピクルスと一緒に、テーブルに置かれた。ピクルスに手を伸ばす。あっという間に酸味と辛さが広がり、口の中が陽気になる。
「うん、これ、いける。うちのサイドメニューにパクっちゃおっかな」
なりふりかまわず夢中になっている姿そのものだ。岩瀬が笑った。
「かっこいいですよ。仕事に熱くなれる女の人」
桜子はメニュー開発について、さらに熱く語った。遠慮する筋合いはないし、支払いだってこちらがする。お目当ての「モーレソース」が出てきてからは、テーブルの上にiPadを広げ、気がついたことを細々と打ち込みながら食事をした。
岩瀬がいった。
「そういえば、昔つきあってた女の子がカレー作ってくれた時、チョコレート入れてましたよ。びっくりしたんだけど、食べてみるとそんなに違和感なかったな。甘辛スパイス、みたいなもんですかね」
八時半を過ぎると、マリアッチの生演奏が始まった。ギターが二人、マラカスが一人。褐色の肌をした男たちは全員、つばの大きな黒い帽子を被り、カラフルなボーダー柄の長いマフラーを肩から垂らしている。テーブルの前で一曲披露し、また隣のテーブルに移動する。マリアッチのリズムはロウソクの明かりとともに、薄暗い空間を彩った。客の中には、酔いに任せて拍手をする者もいて、店内はライブハウスのような雰囲気になった。
彼らが桜子たちのテーブルにやってきた。マラカスを持った男がたどたどしい日本語でいう。
「フタリノタメ、アイノウタ、ウタイマス」
桜子は苦笑した。岩瀬は気にする様子もなく、物珍しそうに男たちを眺めている。自分たちは歳の離れた恋人同士に見えるのか、それとも外国人には日本の女の年齢などわからないのか。楽しそうに身体をゆすり、情感たっぷりに〝愛の歌〟を歌い上げた。演奏が終わると、マラカスの男がCDを差し出した。
「コレ、イカガ、デスカ。ニ、センエン、デス」
ジャケットには彼らが写っていた。桜子は財布から千円札を三枚取り出した。
「一枚は、今の歌に対する感謝よ」
「アリガト、アリガト」
男たちは上機嫌で隣のテーブルに移っていった。
ウエイターが小さなグラスをふたつ持ってきた。
「こちらのテキーラ、さきほどの感謝のお返しだそうです」
「それじゃあ遠慮なく」
テキーラが舌に染みると、口の中がかっと熱くなる。行ったことのないメキシコの太陽を想像させる。
「うまーい。テキーラって酔いつぶすための酒ってイメージがあったけど、きちんと味わうと、こんなにおいしいんですね」
岩瀬はそういって、あっという間にグラスを空にすると、ウエイターを呼んでテキーラを注文した。
「さきほどと違う種類のものをご用意いたしましょうか」
「お願いします」
値段もたずねず、岩瀬が答える。
「そういえば、ぼくアイリッシュ・パブでウィスキー・パスタっていうの、食べたことありますよ。クリームソースとサーモンにウィスキーがかかってるの。けっこう、うまかったですよ。テキーラ・パスタなんて、どうですか?」
「なるほどねー」
二人でコロナを六本、テキーラを五杯飲んだ。店を出る頃には、岩瀬の足取りはかなり怪しくなっていた。桜子は、空車の赤い文字に向かって手をあげた。
「岩瀬くん、大丈夫? 一人で帰れる?」
「う……。気持ちわるい」
「ええっ。家はどこだっけ?」
「経堂……です」
「経堂かあ」
桜子の実家の近くだった。高校の後輩である岩瀬は、まだ実家に住んでいるらしい。送っていくには遠過ぎる。仕方なく二人でタクシーに乗り込む。
「運転手さん、ちょっと待ってて。今、行き先決めますから」
「うう、吐きそう……」
「お客さん、勘弁してくださいよ」
運転手は、振り向いてあからさまに嫌そうな顔をした。
「すみません。じゃあ三軒茶屋まで」
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。