#Metoo 時代に責任のある魅力的な大人の男になるには

いま、「おっさん」はどこへ行くべきなのか? 国内外のドラマや映画のキャラクター、ポップスターといった時代に合わせて生まれつつある「あたらしいおっさん=ニュー・ダッド」の姿を見つめる新連載がスタートしました。第1回はイントロ編。若い男子にはない、おっさんの魅力とは…?

イラスト:澁谷玲子

おおらかで包容力のある「ダッド」

子どものころからおっさんが好きだった。

目尻の皺、後退しつつある額や後頭部、少したるんだ腹……というような中年男性にありがちな身体的特徴に目がいくことに気がついたのは、自分がゲイであると理解する前からだったと思う。とくに好きだったのは髭だ。それも、とってつけたようなオシャレ髭でなく、木こりのおじさんや海の男が生やしてそうな、もじゃもじゃの髭。『タンタンの冒険』のハドック船長のようなアレである。

でも、日本では身近に生やしているひとはあまりいなかったし、テレビに出てくるひとにもあまり多くはなかった。まあ、日本人はそもそも髭が薄いということもあるだろうけど、どうなんだろう、髭が海外ほど社会的に受け入れられていないようだった。

だから僕は、カッコいい髭のおじさんを欧米の映画やミュージシャンのなかから発見してきた。いまでこそ海外の映画や音楽について書くようなことをしているけれど、はっきり言ってその入口は、なんてことはない、思春期の少年のリビドーだったと思う。ジャニーズの若くて綺麗な男の子たちよりも、テレビで放送していた名画劇場で観る暑苦しいロバート・デ・ニーロのほうが僕にはセクシーだったのだ。

で、30代なかばに差しかかったいまも僕はおっさんが好きなままだ。ただ、この年になってくると、感じ取るセクシーにも単純に肉体に対してだけでなく奥行きが出るようになってきた(と、思いたい)。僕はおっさんの見た目だけでない何か、おっさんが表象する何かにいまも惹かれているのである。若い男には似合わない、ふさふさとした髭が暗示している何かに……。

その「何か」とはいったい何なんだろうと、僕は毎日、マジで1年365日考えているわけだけど、どうやらそれが英語圏で「ダッド」と呼ばれている要素であることがわかってきた。

ダッド……お父さん、父ちゃん、オヤジ。中高年好きのゲイはまったく珍しくないけれど、そうは言っても世の大半のひとはあまり理解してくれないので、ヘテロセクシュアルの男性やふつうに若い男子が好きな女友だちには、要は彼らから醸される父性に色気を感じるのだと説明している。これは実際に子どもがいるかどうかという話ではなく、それなりの人生経験を経てきたらこそ持てる、他者—それもできれば、自分よりも力のない人間—を庇護する包容力や大らかさこそ、色っぽいのだと。その広い背中にときめいてしまうのだと。

これが偶然にも、自分が日本のカルチャーよりも海外のカルチャーに惹かれる説明にもなった。よく「日本は母性社会で欧米は父性社会」だと言われるが、心優しくて頼りになる父親像ないし中年男性像は—あくまで僕の体感だと但し書きをしておきたいのだが、それほど偏った見方だとも思わない—日本のカルチャーよりも海外のそれから見つけやすかったからだ。実際、アメリカでdaddyはスラングで「イケてる」を意味することもあると聞く。僕はこれにあやかって、好みの男性像を「ダッド」だと言っている。ダッド、ダディ。キリスト教を連想させる「ファザー」ではなく。

揺れ動く「おっさん」のいま

ところが、いま、「おっさん」はとにかく分が悪い。空港内の模様を自撮りしてSNSにアップする「エアポートおじさん」のウザさ、LINEやメッセ、ツイッターで的の外れた内容を送ってくる「クソリプおじさん」のウザさ。若者を苛立たせるおっさんの生態は今日もSNSで告発されている。

その程度ならまだマシなほうで、現在、おっさんとおっさんが作り上げてきた社会こそがセクハラとパワハラの温床であり元凶であったことが様々な角度から検証され、批判されていることは間違いない。

女性の社会進出や地位向上を阻む、古い風呂桶にこびりついた錆のようなものとしての「おっさん」。LGBTやジェンダーフリーに対する理解など持たず、ただただ男性特権にしがみつくゾンビとしての「おっさん」。そんな終わっている「おっさん」への嘆きがSNSに溢れ、それを見た僕は思わず、「ダッドが足りない……」とつぶやいてしまう。

だがもちろん、欧米における「ダッド」もいま急速に見直しが迫られている。とくにアメリカが発信源となってフェミニズムが何度目かの一大ブームとなり、#MeTooが世界を席巻したのは誰もが知るところだろうけど、そのなかででは、これまで権力の座にふんぞり返ってきた男たちはどうするべきなのか。

日本ではそれほど大きな話題にならなかったように思うが、今年、カミソリ会社ジレットが発表したCMの燃えっぷりは凄まじいものだった。それは近年広く知られることとなった、いわゆる「トキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)」の問題を取り上げたもので、カジュアルなセクシュアル・ハラスメント、LGBTへのいじめ、男の子が示す攻撃性や暴力性に対する思慮のない肯定といったものを、大人の男たちがちゃんと変えていこうと訴えている。それは男の側からの男に対する深い内省であり、フェミニズムの高まりに対するごくまっとうなリアクションのように思える。

僕も無邪気に「ダッド」が好きだと言えなくなってきたと思う。もちろんセクハラやパワハラ、性差別やホモフォビア的言動をする中年男性が良いとはまったく思わないが、だからと言って僕が言う「ダッド」だって、ジェンダー・ステレオタイプと完全に切り離せるものではないだろう。あるいはまた、これだけトキシック・マスキュリニティが取り沙汰されるのは、それだけ社会的に男性が「男らしさ」を要求されてきた(いまも要求されている)ことの裏返しでもある。僕はゲイというある種のジェンダー治外法権的な立場—典型的な「男らしさ」の抑圧から解放されている—から、無責任におっさんに萌えているだけではないのか? そんな簡単に答の出ないことをぐるぐると考えてしまう。

『おっさんずラブ』のおっさん描写

日本で最近話題となった「おっさん」と言えば、やはり『おっさんずラブ』だろうか。BLの構図を中年男性にトレースし、さらに往年のラブコメと結びつけたドラマはスマッシュヒットし、女性だけでなく日本のゲイも大いに沸かせることとなった。「(かつての)王道の月9を意識した」という『おっさんずラブ』は、同性愛をモチーフとしている以外ははっきり言って他愛のないラブコメとしか僕には思えないのだが、僕の周りのゲイの友人たちも大盛り上がりしていた。それだけゲイ・テーマのものが日本のポップ・カルチャーの表舞台に出てこなかったということだろうし、それ自体は喜ぶべきことなのだろうけど、僕はまったく乗れなかった。それは、ゲイ描写以上に「おっさん描写」においてである。

おっさん好き的には、否応なく盛り上がるのは吉田鋼太郎演じる武蔵の存在だろう。仕事ができる50代の頼れる上司、しかも髭—というダンディな男性が、主人公にじつは想いを寄せていたという設定は、リアリティはなくともワクワクしてしまうところがある。だが、彼の主人公春田への迫り方は僕を一気に興醒めさせた。相手が拒否しようとしているのに聞こうとせずにアプローチする、しかも身体的にベタベタと触れながら……って完全にセクハラやんけ!

これがもし、主人公が春田と同じ年(33歳)の女性という設定だったら大バッシングを受けていただろう。この描写が「男同士だから」許されるというならそれは二重の意味でマズい。ハラスメントはセクシュアリティやジェンダーによらず問題であるし、ゲイ表象におけるハラスメントが笑いに転化するのはホモフォビック(同性愛者に対する偏見がある)とすら言える。コメディにマジになるなと言われそうだが、これはおっさん好きには到底見過ごせないものだ。年下の女性にセクハラするおっさんがいまイケてないのであれば、年下の男性にセクハラするおっさんもイケてないはず。武蔵はのちにじつは乙女だったことがわかるから、そのギャップが萌えのポイント? セクハラ上司が乙女だったらキモいだけでしょ!

……あくまで春田と牧が繰り広げるキュン恋の引き立て役である武蔵にこだわるのは例外的な見方なのだろう。だが、僕はその入口でつまずいてどうしても楽しめなかった。最近は社会的な意識が高いBLも増えつつあるなか、美人ではない女性キャラがコミックリリーフとして安易に消費されていたり、ゲイ・アイデンティティへの葛藤や内省があまりにも薄かったりする『おっさんずラブ』は前時代的な価値観を内包しているように思えて、その辺りも僕にはけっこうキツいのだけど、それ以上に、「おっさん」を名乗るならもっといまの時代の「おっさん」についてしっかり考えてほしかった。要は、「おっさん」の描き方が雑なのだ。

あたらしい時代のあたらしいおっさん

ではいま、「おっさん」、あるいは「ダッド」はどこへ行くべきなのか?

僕はやっぱり毎日考えてしまう。1年365日、年中無休で気にかけている。りゅうちぇるに代表されるようなジェンダーフリーな男子たちの未来は明るいと僕は思っているけれど、一方でいままで「男らしさ」のプレッシャーをかけられてきた一般の男性たちが急にみんなりゅうちぇるになれるわけでもないだろう。では、安易なアンチ・フェミニズムや女性嫌悪に陥ることなく、責任のある、そしてそれゆえに魅力的な大人の男になるにはどうすれば良いのか?

僕はいま、ダッド先進国である欧米のカルチャーを中心にそのヒントを探している。というのは、新たな父性とも呼ぶべき、時代に即した中年男性像がそこでは見られるようになっていると感じるからだ。僕は今日もテレビドラマや映画を観ながら、音楽を聴きながら、あるいは日常レベルでも、イケてる「おっさん」を求めて……いや、正直に言うと、僕は彼らに色気を感じたいのである。僕はいまも「ダッド」が好きだし、「ダッド」が好きでいることを心から楽しみたい。だからこそ、トキシック・マスキュリニティを乗り越える「ダッド」を見つけ、彼らをこそ評価せねばならない。

あたらしい時代のあたらしいおっさんたち。ひとまず彼らのことを「ニュー・ダッド」と呼ぶことから始めてみたい。

この連載について

ニュー・ダッド あたらしい時代のあたらしいおっさん

木津毅

「おっさん=悪いもの、古いもの、いまの社会の悪しき土台を作ったもの」とされている今日この頃。ではいま、「おっさん」はどこへ行くべきなのか? 時代に合わせて生まれつつある「あたらしいおっさん=ニュー・ダッド」たちの姿を見つめながら、これ...もっと読む

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mottykey これだけトキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)が取り沙汰されるのは、それだけ社会的に男性が「男らしさ」を要求されてきた(いまも要求されている)ことの裏返しでもある。 https://t.co/YTW2xycKnh 14日前 replyretweetfavorite

MKAD57 これわかる。 Metoo時代に責任のある魅力的な大人の男になるには|木津毅|ニュー・ダッド あたらしい時代のあたらしいおっさん https://t.co/gM6WwAiBXQ https://t.co/FBbKbz7CkZ 28日前 replyretweetfavorite

MKAD57 これわかる。 Metoo時代に責任のある魅力的な大人の男になるには|木津毅|ニュー・ダッド あたらしい時代のあたらしいおっさん https://t.co/5SEscOYzbi https://t.co/XTUUGj8 28日前 replyretweetfavorite

Lave_chamo @kookosan @2019Yuzuko 横から失礼。 私もまきくんは大好きですが、こんな記事を読むと考えさせられます。 https://t.co/FrAUtuMKFt 約1ヶ月前 replyretweetfavorite