photo by 飯本貴子
エピローグ/人生が虚無だとしても 茂木健一郎
最初にも話したように、僕は基本的に能天気に見えるけど、「人生は虚無だ」と思っている。みんながつらいと感じているような人間関係や職場でのトラブルは、確かに大変だけど、「人生が虚無である」ことの恐ろしさと比べたら別に大したことがないという気がしている。この恐ろしさを読者にわかってもらえるかどうか、ちょっと僕にはわからない。
「どうせみんな死ぬからね」
そんなふうに僕は世界を見ている。
どんなに元気に見える人も、いつかは死ぬ。当然のことだけれど、死んでしまったら、その人が生きていた生き生きとした時間はなくなって、意外なほどに消えてしまう。全部消えてしまうのである。
僕は子どもの頃からアインシュタインマニアである。彼はとても偉大な人であるが、彼が生き生きと生きていた時代は今はもうどこにもない。アインシュタインと話すこともできないし、横に座ることもできない。
死後の名声なんて、クソみたいなもんだと思う。死んでしまったら全部なくなる。ノーベル賞をとっていても、テレビでどんなに視聴率をとっていても、どんなにお金持ちでも、みんなに尊敬されていても、そんなものはどうでもいい。本当に大切なことはそこにはない。今話しているこの時だって、もう二度と戻ってこない。200年後には今生きている人は誰もいない。何かを成し遂げたり、勲章をもらったりして有名になっても、死んだら終わり。
そういう中で我々は生きている。そういうことに比べたら、他のことなんてどうでもいいんじゃないかというのが僕の正直な気持ちだ。
これは、あまり万人に共感される意見ではないということもよくわかっている。でも、こういうことを僕は中学生の時から言っていた。みんなとは世界の見方が違うんだと思う。
老人を見て「老害」だと言ってみたり、老人が若者を見て「ひよっこ」だと言ってみたり、そういうことも全く意味がわからない。
だって、ただ時間軸がズレているだけのこと。早く生まれたか遅く生まれたか、それだけのことだ。どこかでランニングしていて、僕が疲れてひとやすみとトボトボ歩いている横を若者が元気に走り抜けていく時、それはどう見られるか。年齢の違いだと見る人が多いかもしれない。
でも実際には、僕はそれまですでに30キロくらい走っていて、その若者は今走り始めたばかりだということもある。どんなことでも、こんなふうに単に軸がズレているだけだということに気がつけば、他人に優しくなれるのにと思う。
苦しんでいるときは、「もう俺は永遠に変わらないんだ」という前提で考えるから苦しい。だけど人生ってもっといい加減なもの。予定通りにはいかない。人が見通しを立てた通りには進まない。
日本語にはない概念だが、キリストが自分が神の子であるという本質が顕在化した気づきを表す「エピファニーepiphany」という言葉がある。平凡な出来事の中に物事の本質が姿を現す瞬間のことだ。僕はそれを、人生を変えるような何か、世界の見え方が変わる瞬間だと思っている。
僕の最大のエピファニーは、クオリアに気づいた31歳の冬。
それまで僕は、この世界のことは全部数式で表せると思っていた。それがある日、理化学研究所からの帰宅中、電車の連結部分に乗っていて、「あれ? 俺が今聞いているガタンゴトンって数字で書けないじゃん!」と気がついた。
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