6 生きていることの意味
本の力
この時代のイギリスでの音楽受容は、アメリカから輸入されるレコードで、各地にその文化的な拠点となるような重要なレコード店が存在していた。
ラジオのみならず、テレビも普及していったが、そうしたメディアがなければ、「アトランティック・クロッシング」は、もっと遥かに難しかっただろう。ただし、ロックやブルースが聴けるのは、「ラジオ・ルクセンブルク」だけだった。
「ラジオ・ルクセンブルク」は、一時はヨーロッパ最大のリスナーを誇った民間ラジオ局で、この世代のイギリスのロック・ミュージシャンの回想には、必ずと言っていいほど登場する名前である。
日本の「カッコいい」もまた、メディアの存在抜きにはあり得なかったことを思い出そう。ただし、レコード、ラジオ、テレビの影響力の比率には国ごとに相違があった。
ユニークなところでは、少年時代から読書家だったロバート・プラントは、『ブルース・フェル・ディス・モーニング』(ポール・オリヴァー著)という、黒人ブルースの研究書を読んで、そこに出てくる名前をメモし、地元バーミンガムのレコード店でそれらを入手していたのだという。
本が、いかに「カッコいい」存在への憧れを喚起し、その知識を深めさせ、情報を広く一般に普及させていくかは、出版不況が嘆かれる今日こそ、見直すべき事実である。
これは、書籍のみならず、音楽雑誌の影響力を思い出せば、容易に理解されるだろう。私は八〇年代から九〇年代前半にかけてのロック少年だったが、新譜のレヴューやインタヴュー、グラビア、楽譜、誰がどこのバンドを脱退して、新ギタリストは元ナントカの誰ソレ!……といった情報が詰め込まれた雑誌がなければ、決してあそこまでロックにのめり込むことはなかったと思う。
本屋で毎月、発売日に雑誌を買って隅から隅まで目を通し、翌日学校に行って、出遅れた友人に、有名バンドの解散のニュースを教えてやったりするのが、本当に楽しかった。勿論、部屋には雑誌の付録のポスターを貼っていたし、透明の下敷きには、好きなバンドの写真の切り抜きを入れて、丁度、今のスマホの待受画面のように、勉強の合間に眺めたりしていた。そして、どこで何をしていても、携帯プレイヤーなど必要とせず、脳内で再生される音楽を通じて、何度となく「しびれ」を追体験していたのである。
単なる情報収集だけでなく、私たちは、「経験する自己」を「物語る自己」が言語化してゆく過程で、その非日常的な生理的興奮が何だったのかを教えてくれる言葉を、どうしても必要とする。歌詞だけでなく、メディアを通じて知るインタヴューも、批評も、大いにその機能を果たしていた。
「戦慄」の体験、熱烈な憧れ
戦後のイギリスの若者たちにとっても、未知なるアメリカの音楽と出会った衝撃は、文字通り、「戦慄」の体験となった。彼らの多くが、その生理的興奮に触れる点に注目したい。
ジミー・ペイジは、少年時代のブルースやロックとの出会いを語って、「ああいった音楽を初めて聴いた時には、本当に、背筋にゾクッとするものが走ったんだ。今でもそうだよ。」と語っている。
ロバート・プラントは、一九六三年に初めてブルースを生で聴いた時の体験を、「興奮で汗が噴き出たね」と回想している。何がどう素晴らしかったと理屈で説明するまでもなく、その体の反応こそがすべてを物語っている、というわけである。彼が特に感激したのは、ボ・ディドリーだった。
「ディドリーのリズムはすべてがセクシーで、たったの二十分で汗だくになった。すごい夜だった」(13)
こうした新しい音楽としてのブルースやロックの受容は、ドラクロワ=ボードレール的な体感主義が、「戦慄」を審美的判断の中心に据えて、批評の民主化を行った一九世紀中葉のモダニズム前史と完全に連続しており、それがメディアを通じて世界的に爆発したのが、一九六〇年代だった。
そして、この「カッコいい」という感覚は、彼らに熱烈な憧れを抱かせることとなる。
「カッコいい」存在への感謝
「私が生まれた一九四五年三月の時点では、多数の外国の陸軍と空軍の兵士がイギリスを通り過ぎていったので、よくあることになっていたにもかかわらず」と前置きして、エリック・クラプトンは、自分が私生児であり、そのことに、大きな精神的打撃を受けて育ったことを語っている。そして、少年時代に、友人の家で聴いたエルヴィス・プレスリーの《ハウンド・ドッグ》について、
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