死ぬ気で仕事をするなら、結婚とか妊娠で気を散らすな

頼りにしていた後輩の百合香に寿退社することを打ち明けられた40歳の桜子。「早く子供が欲しいんです」という百合香の表情からは、独身の桜子に対しての哀れみがみてとれ、一瞬、気まずい空気が流れるが……。
「産む性」として揺れ動く女性たちの心の葛藤とそれぞれの人生の選択を描いた8つの短編集『産む、産まない、産めない』より特別公開。

(カバーイラスト:近藤圭恵 / モノクロイラスト:オカダミカ)

 何度こういう場面に遭遇したことか。いったい、いつ自分が子供を欲しがったというのだろう。いないからって、同情されたくはない。もう若くはなくて子供がいない女を前にすると、みんな結婚や出産の話題をどう扱っていいのかわからないらしく、とまどい、視線をそらす。

 桜子は、子供を産みたいと思ったことは一度もなかった。友達の家に遊びに行って、部屋がおもちゃに占領されていると不思議な気持ちになる。何かわけのわからない異質なものに支配されている、というか。その光景を自分が背負い込むことにイメージがわかなかった。学生時代、つきあっていた男に、桜子って母性の足りない女だよなあ、と冗談ぽくいわれたことがある。彼のいう通り、母性という当たり前のものが、自分には足りないのかもしれない。

 百合香は気まずそうな顔でコーヒーを飲んでいる。百合香だって、ついこのあいだまで、よけいな気を使われる立場だったのに。

 その日は、めずらしく山形部長に夕食に誘われた。

「鮨でも行くか」

 連れて行かれたのは昼と同じ店だった。桜子はそんなことはおくびにも出さず、明るい声でいった。

「嬉しい。お鮨、久しぶりです。ありがとうございます」

 まず桜子が部長のグラスにビールを注ぎ、部長が桜子のグラスにビールを注ぎ返す。

「坂下、汐留の件、大丈夫だろうな? シロウトから募集した新メニュー、あれ、どうなってんの?」

 翌日の午前中には管理職たちの定例会がある。大雑把な様子を聞き出し、さも自分が手掛けているように発表するつもりだろう。桜子は、そのことに不満を感じるほど若くはなかった。実際に仕事の充実感を得ているのは、自分のほうだ。それを知らず、出世しか頭にない部長をかわいそうに思う。

 寒ブリの刺身に箸を伸ばしながら、予想をはるかに超える応募総数だったことや、チョコレートソースを使ったパスタを考案中であることを、かいつまんで話した。

「チョコレート? パスタに?」

「はい。チョコレートといっても、チョコレートの原料を使った料理専用のものです。メキシコ料理では、鶏肉にこのソースをかけたメニューは定番です。それを少しアレンジして、ひき肉とからめてみたらどうかと思いまして」

「おれには、よくわからんな。大将、どう思う? チョコのかかったパスタ」

 カウンターの向こうで、白髪の男が苦笑いしている。

「さあ。私、パスタなんていただく機会がありませんからねえ」

 それから部長と大将の世間話になった。桜子はおもしろそうに聞いているふりをしながら、頃合いを見計らって、話題を新メニューに戻した。

「次の試食は、部長もぜひ参加なさってください。私はメキシコ料理店に研究にいってみますので。来週初めにはチョコレートの業者が三社、プレゼンに来ます」

「わかった。坂下はほんとに頼もしいなあ」

 そういって、徳利に手を伸ばした。部長の顔はかなり赤くなっている。

「ところでさあ、お前は、まさかと思うけど、ないよな?」

「何がですか?」

「あの子みたいなやつ。沢口のことだよ」

「ああ、寿退社ってことですか。まさかあ。そんな願望もあてもありませんよ」

「すまんすまん。坂下をその辺のおねーちゃん社員と一緒にして悪かった。まったくさあ、女はなんかあると、平気で仕事を途中でほっぽり出しちゃうから、信用できないよなあ」

 おねーちゃん社員というのは、部長がたまに使う、彼なりの差別用語だ。桜子が適当なあいづちを打っているので、部長はすっかり油断したらしく、いかに女は使えないかを脈絡なく語り出した。

「だいたい、女はさ、子供ができるとそれが一番になっちゃうだろ。仕事に身が入るわけないんだよな。産休だの育休だのって一年も休んだりしたら、もういろんな状況が変わっちゃうわけですよ。死ぬ気で仕事するなら、結婚とか妊娠で気を散らすなって話さ」

 嫌な気持ちになった。女が子供を産まなければ、あんただってこの世にいないでしょう、といってやりたかった。口には出さないけれど。

「坂下、お前は、おれが唯一見込んだ女だ。おれに続くのは、お前しかいないと思っているから」

 芝居がかったものいいで、赤い顔をこちらに近づけた。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

妊娠と出産をめぐる8つの物語

この連載について

初回を読む
産む、産まない、産めない

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

moxcha 性別関係なく若い世代は「仕事好き=自分の時間を全投入」ではなくなってきている。 28日前 replyretweetfavorite

megamurara 死ぬ気で何かをすることに対する憧れを瞑想の力によって手なずけたい。 29日前 replyretweetfavorite

thinktink_jp "「ところでさあ、お前は、まさかと思うけど、ないよな?」 「何がですか?」 「あの子みたいなやつ。沢口のことだよ」 「ああ、寿..." https://t.co/91NQ0Hrz9Z https://t.co/Onf4UBsU97 #drip_app 29日前 replyretweetfavorite