「その上に何でも載せて」と促され分母に最果ての素数を載せる
切手を集め始めたのは十三歳の時だ。
縦長の菱川師宣の見返り美人の切手を父からもらって。見とれてしまって。何で見とれてしまうのだろうと思って。美しいとはなんなんだろうと考えて。
わたしが切手に興味があると知った父はそれから、毎月一日に切手を買ってきてくれるようになった。
わたしはほとんどそれだけを楽しみに生きていた。
学校に行くのは億劫だった。父と母が心配しないように、親孝行のつもりで通っていた。
切手はみな美しい。美しくない切手はない。そのことが不思議だった。つまりその正方形や長方形が美しいのかもしれないと思った。その形に切り取れば、この世の全ては美しい。
国語の教科書に黄金比のことが書いてあった。1:1の正方形が美しいのは分かるとして、それ以外の比の美しさもあるのだ。完璧に美しいものは分かる。目が離せなくなる。
切手からわたしは目が離せない。切手を見ていると、その面積の枠が、牢獄の窓のように視界を支配して離せなくなる。
そしてそれが嫌ではなく、むしろずっと支配されていたい。
十一月一日に、父は記念切手シートを買ってきてくれた。シートでくれたのは初めてで、わたしは興奮してその一枚一枚を凝視した。
「ふるさと記念切手シリーズ」の一枚で、イラストレーターの佐島安治氏が水彩で日本各地の素朴な風景を描いている。
その中の一枚から目が離せなくなった。
その一枚だけ、どうしても絵には見えなかった。海沿いの漁師町なのだが、見たことがある。
いたことがある。
烏賊がとれ過ぎて、漁師たちがポリバケツに烏賊を捨てていた。
その烏賊を海猫が食べにくる。
眺めていると、海猫が腕に載ってくる。触っても逃げない。
翌日クラスの吉田が、わたしを「海臭い」と言って笑った。
松永は「魚くせー」と鼻をつまんだ。
ここは山あいの中学校だ。
わたしは、あれは妄想じゃなかったのだと覚醒したような喜びに浸った。
走るように帰り、引き出しから記念切手を出し、日本のいくつかのふるさとに行った。
毎日、そうやって過ごした。
父は十二月一日にはクリスマスグリーティング切手のシートを買ってきてくれた。
その中の一枚は、正方形の形いっぱいが一枚のクラッカーの写真だった。
凝視しているうちに、切手の枠が外れるようにしてクラッカーが出てきた。
ほろっとした感触の焼きたての熱さと香ばしさと軽さで。
そのクラッカーの裏面は、糊の味がする。
ぴりぴりと切手を切り離す指先五つ並べてオーブンに入れる
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