〈『いだてん』第29回「夢のカリフォルニア」あらすじ〉
いよいよロサンゼルスオリンピックが開幕。日本水泳チームの総監督として現地に乗り込んだ田畑政治(阿部サダヲ)は、広大で美しい選手村で各国の選手たちが交流する姿を見て、これぞスポーツの理想郷と感激するが、その一方で日系人差別も目の当たりにするなど複雑な思いも抱く。全種目制覇を絶対の目標とする田畑は、本戦に出場するメンバー選びで非情な判断を下し、高石勝男(斎藤工)ら選手との間に軋轢を生む…。
栄光は君に輝くか
私たちは建前の上では、競技に出場するすべての選手に栄光あれと思っている。勝者にも敗者にも惜しみない拍手を送るべきだ。そう言われれば、ほとんどの人が同意するだろう。
でも、実際はどうだろう。私たちは常にそのような公明正大な気持ちでスポーツを見ているだろうか。そもそもスポーツの中継のカメラワークは、そのような公明正大な気持ちを保証してくれるだろうか。
例えば水泳を思い出してみよう。後半に入り、上位陣が誰かがはっきりしてくると、真横からのカメラが、誰の頭先がリードしているかを捉え始める。後方の選手との差を強調するために、斜め前からのショットが用いられることもあるけれど、それも映るのは一部の選手で、手前のコースで遅れをとっている選手にカメラが向くことはない。そもそも、水泳では予選の記録をもとに、中央のコースに一番よい記録を出したものを配し、その両側に二位三位とコースを決めていくから、先頭の斜め前からカメラを向けるとき、遅れをとっている手前の選手は映りにくい。
いや、天井からの俯瞰や引きのショットなら全員の姿が映るではないか、という人もいるかもしれない。けれど最近のレースでは、世界記録や日本記録、あるいは選考に必要なタイムを示す色つきのラインが表示されて、選手とともに動いていくので、わたしたちの目はどうしてもそのラインに近い選手にひきつけられて、遠く離れた選手は鑑賞の対象外になる。そして、上位のものがゴールすると、彼らがタイムを見るときの表情や握手を交わす様子をカメラは追い、下位の者のことはすっかり忘れているのだ。
つまりこうだ。すべての人に栄光あれと、わたしたちは建前では思っている。けれど、そもそも、水泳競技を映すカメラワークが、勝ち負けに注意を向け、順位や記録に対する興味のもとに構成されている。それを見る私たちもまた、おのずと勝ち負けや順位や記録にこだわるようになる。
水しぶきと呼吸
これに対して、「いだてん」第29回で描かれたの100メートル自由形の場面は、私たちの競技鑑賞の常識を覆すような演出を行っていた。
最初はごく普通の競技撮影だ。頭1つ抜けた宮崎そして河石、高橋の頭の部分をカメラは捉えている。1コースの高石勝男は明らかに遅れており、その姿はフレームの端からもこぼれ落ちそうになっている。このまま一位の選手を追うならば、わたしたちがよく知っている水泳中継だ。
ところが1位の宮崎が50mのターンに近づこうとするとき、カメラは急に速度を落として、1コースの高石の後ろに回り込み、彼の姿を間近に捉える。高石の側から見たトップとの差がはっきりと映し出される。
ここで、「ターン」のある水泳ならではの興味深い群衆劇が演じられる。トップの宮崎の姿を追うマーちゃんは、宮崎がターンしたのを見てゴール側に歩き出している。ところが高石を応援するカクさんやメンバーたちは、まだターンを終えていない高石の姿を追ってマーちゃんとは逆に歩いている。この、逆行する移動によってマーちゃんは突然、ほとんどのメンバーが高石を応援していることに気づくのだ。
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