第5章表面的か、実質的か|6ファッションは今もまだ重要なのか?

ドラえもんの存在意義は、のび太君のものぐさというキャラクターの故であり、あの漫画が真に近未来的だったのは、実のところ、その主人公の設定にあったのかもしれない。現代人は総じて〝のび太君化〟しているーー。平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売の新書を全編連載。 「カッコいい」を考えることは、「いかに生きるべきか」を考えることだ。(平日毎日更新)

6 ファッションは今もまだ重要なのか?


服装よりもSNS

 ネットのもう一つのより本質的な影響は、個人のアイデンティティを評価する上で、服装の比重が劇的に低下したことである。

 洋服に限ったことではなく、私たちは、かつては「カッコいい」の象徴だった高級スポーツカーを所有し、乗り回すことを、今ではあまり「カッコいい」と思わなくなっている。若者の車離れには、経済的な理由や、運転していると〝ながら〟が出来ないなど、色々な理由があろうが、ステイタス・シンボルとしての憧れが失われた、というのも、その一つだろう。

 消費社会論というのは、やはり、景気のいい時代の思想で、長いデフレ経済の影響もあり、〝誇示的消費〟は「ダサい」と感じられるようになりつつある。実際、フェラーリやランボルギーニが似合うというのは、日本の道路事情的にも運転手のキャラクター的にも、なかなか難しい話だが、そうなると、車の「カッコよさ」は、表面的なものとして内実から乖離したものと思われてしまう。

 低い車体に苦労しながら乗り込むのも、大きなエンジン音も、駐車場が見つからずウロウロするのも「ダサく」、今日的な価値観では、シェアリングの方が遥かにスマートで、そうした新しいライフスタイルで生活を合理化している方が、「カッコいい」と目される可能性もある。いずれ、車の自動運転が実現すれば、所有の必要自体がなくなるというのは、私たちが漠然と思い描いている未来像である。(10)

 衣服の場合も、本当にそのデザインに魅了されているならばともかく、これ見よがしにブランドの大きなロゴがついたTシャツなどを着ていると、金持ちの自慢のようであり、ただ流行っているから、というので、あまり趣味でもない服を無理して着ていても、センスの良い人、という評価は必ずしも得られなくなっている。

 外観の印象は、勿論、否定できないが、それでも今日、ある人物がどういう人かを判断する上では、ネット上のSNSを丹念に読んだ方が、遥かに多くの情報を得られる。どんな服を着ているかで、自分が趣味の良い人間であるということを相手に理解させる必要は相対的に減っている。

 極端に言えば、「ノームコア」などというコンセプトまで語られた通り、服は何でもいい、というくらいの無頓着の方が「カッコいい」という感覚さえある。つまり、「カッコ悪く」なければ十分というわけである。それには、スティーヴ・ジョブズの黒いタートルネックや、ザッカーバーグのパーカーなど、シリコンバレー的な価値観の影響も少なからずあるだろう。

 今日、就活の学生のリクルート・スーツが異様なまでに同じだというので、しばしば批判の対象とされているが、むしろ、ファッション・センスが採用を左右するくらいなら、そこはみんな同じでいいじゃないか、という考え方には一理あるだろう。安い既製品が出回っているからというのもあるが、表面の「カッコよさ」よりも実質を見てほしいという考えを徹底するなら、採用面接はブラインド・テストのようにパーティション越しに行うくらいの方が正しいのかもしれない。


ファストファッションは「カッコ悪くない」服

 デザインは、二〇世紀以降、機能性を追求してきたが、その必然として、現代のテクノロジーは、生活の中の面倒臭さを駆逐すべき悪としてターゲット化している。IoT関連の技術は取り分けそれが顕著で、ドラえもんの存在意義は、のび太君のものぐさというキャラクターの故であり、あの漫画が真に近未来的だったのは、実のところ、その主人公の設定にあったのかもしれない。現代人は総じて〝のび太君化〟している。

 そういう時代には、ちょっとした買い物には何かと不便そうなスポーツカーや、どこから袖を通したらいいのかわからないような複雑なデザイナーズ・クローズなどは、「ダサい」とも見做されかねない。

 更には、貧富の差も拡大し、外観によって人をジャッジすることに抑制的な風潮も広がっている。

 私たちは、さすがにいつも同じ服ばかり着ていては飽きるし、そのためには、時代の空気を敏感に表現するデザイナーたちの才能が不可欠である。しかし、基本的に、モードのコレクションに依存してきたファストファッション・ブランドに、自力で時代の美を更新する力はなく、H&Mとカール・ラガーフェルドとのコラボやユニクロとジル・サンダーとのコラボなど、両者の融合も部分的には図られてきたが、大きな成功を収めるには至っていない。

 ユニクロは、ヒートテックやストレッチデニムなど、機能に独自性を見出し、趣味に関しては大量のカラー・ヴァリエーションを揃えることで、多様性に対応する、という戦略を採っている。しかし、機能性の追求は、競技という、車で言うならF1のような先鋭的な実験の場を持つスポーツ・ブランドには勝てないであろうし、色の豊富さは、結局、多すぎて選べない、というもどかしさを与えてしまう。

 ファストファッションは、結局のところ、「カッコいい」服ではなく、「カッコ悪くない」服である。それは、別に憧れられない服であり、そこにはカリスマ的なデザイナーによって生み出されたトレンドというモードの神話が、決定的に欠落している。

 それでも、「ダサい」という羞恥心から、私たちを解放してくれるのは事実である。


「当たり年」の服を着続ける

 モードは近年、着やすさとデザイン性との両立を、ヒップホップの世界的な影響下にあってストリートに求め、スニーカーを大ヒットさせている。しかし、幾ら何でも振れすぎた針を、オーセンティックなモードのエレガンスの方に引き戻す力も働きつつある。

 ネットの登場によってもたらされたこの二十年ほどの混乱を経て、モードは、流行と「ダサい化」の新しいテンポ感を今、模索している。私たちの態度としても、例えば、最新のモードを追うだけでなく、過去のコレクションの中から「当たり年」の服を敢えて着続ける、というのも、新しい「カッコいい」のあり方ではあるまいか。

 トム・フォード時代のグッチの一九九五年秋冬は、ラグジュアリーなリアルクローズを決定づけた傑作コレクションだったし、私の大好きなアルベール・エルバス時代のランバンの二〇一〇年の秋冬は、今見ても比類なく「カッコいい」と思う。そうした思い入れは個々にあるだろうが、それに拘って当時の服を着るというのは、スマホをかざすだけで、ヴィジュアル・タギング技術により、ARが情報を教えてくれるといった社会が到来すると、ただ新シーズンのコレクションを追うより、ツウだとされるかもしれない。

 イヴ・サン=ローランのモンドリアン・ルックやサファリルックなど、歴史的なコレクションもある。それらのヴィンテージを自分でスタイリングして着る、というのも、贅沢な着こなしだし、ブランド自体が、過去のコレクションをリファインして再現し、新たにヒストリック・コレクションとして売るというのも、一つの発想だろう。


「ダサい化」は「ダサい」戦略か?

 多様性が尊ばれる現在では、「ダサい化」は、むしろそれ自体が、あまりに単線的な進歩史観に基づいた、「ダサい」戦略とも見えよう。

 人それぞれに、「カッコいい」と感じるものは違う。前のシーズンの服は、まだネット上で買えるし、自分はそっちの方が「カッコいい」と思っている。世代によって、趣味も違う。それで何が悪いのか? なぜ、「ダサい」と貶す必要があるのか?

 想像の共同体を維持してきたマスメディアの退潮は著しく、ネットは多様性を推し進めながら、分断と対立も深刻化させている。更に、貧富の差が全世代的に亀裂を生じさせているが、そのために世代を超えた結びつきが生じる可能性もある。

 流行と「ダサい化」を繰り返す同調圧力から個人が自由に解放される、というのは、私たちが今日よく知っている世界観である。

 しかし、その問題を、既に現実を通じ、骨身に染みて知っている私たちは、更にこのように考えるだろう。

 個人の趣味が、もし完全にバラバラであるならば、私たちは孤独である。だから実際、ネット上には無数の共通の趣味による場所が形成されている。それが社会を変えるほどの影響力を持つためには、非常に巧緻な戦略が必要であることは、よく知るところである。いいものであれば、自ずと広がるなどとは言えないのだ、ということは、レジス・ドブレがメディオロジーという学問で喧しく繰り返した事実である。

 そして、実際に共通の趣味が、一つの流行となったならば、結局、それが自ずと帯びてしまう同調圧力に反発する、個々人の更に別の趣味が求められる。

 流行には、確かに多様性を否定する一面がある。同時代の他の存在を「ダサい化」し、過去の存在を「ダサい化」して、一時代の趣味を独占しようとする暴力性がある。

 では、そんなものはない方がいいのか?

 必ずしもそうではないだろう。

 私たちには、時代の変化を、洋服や食べ物を通じて感じ取りたい、という欲望もある。戦時だから、派手な服は着るべきではない、などというのは、単なる迷惑だが、人間観・世界観が大きく変わってゆく時代に、それを敏感にキャッチした「カッコいい」デザインの服が流行るならば、それを楽しみたい。それが、自分を「カッコよく」見せてくれるならば、自分の趣味一本で「カッコいい」人間になろうと努力するよりも、ある意味、楽である。

 実際、自分の好きだと信じるものにだけ固執し続けるのは、些か退屈でもある。

 私は、タックが入ったようなストーン・ウォッシュのジーパンから、しゃがむと尻が見えそうなほど股上の浅いベルボトムのジーパンまで、色々穿いてきたが、流行がなければ、決してそれほど豊富なヴァリエーションのジーパンを試してみることはなかっただろうし、勿論、自分でデザインなど出来なかっただろう。

 前のシーズンとは違う「カッコよさ」を追求するデザイナーの才能と戯れることにも楽しみがあり、その意味では、流行と「ダサい化」にも、クリエイティヴィティを後押しする積極的な意味があることは事実である。


分人ごとに「マイブーム」を所有する

 なぜ、「ダサい化」が効果的だったのか? それは、流行が終わって、マーケットが萎縮すれば、大量生産を前提とする製造業では、その商品の製造を終了せねばならなかったからである。だらだらと、微妙にブームが続くことを許容することは難しかった。

 しかし、3Dプリンターが注目され、AIによるデータベースの活用が期待されている今日、状況は変わりつつある。

「カッコいい」ものは、一時代の全面的な支配ではなく、一定のシェアの獲得で十分である。そして、実のところ、それを受け止める私たち自身の主体も分化し、複数化している。気分によって、あるいはTPO次第で、今日ブーツカットのジーパンを穿き、明日、ストレートのジーパンを穿いても構わない。表面の奥には、複数の実質が控えていて、いずれにせよ、その一つの外観でその人物の多様な本質を全体的に把握することは出来ない。

 私たちは、思いつきめいた複数の「マイブーム」を分人ごとに所有し、多種多様な「カッコいい」を、同時に楽しむことが出来るようになっている。

 勿論、その時にも「カッコいい」は結局のところ、競争するはずである。なぜなら、私たちの人生の時間、一日の時間は有限であり、出費にも限度があるので、その多様性の中から、何かを優先的に選ばねばならないからである。

 私たちは複数の分人の構成比率を配慮しつつ生きている。そして、出来れば、「しびれる」ような「カッコいい」ものに触れる分人を多く生き、羞恥心を抱かせられるような「カッコ悪い」分人を生きずに済ませたいと工夫する。

 最新の「カッコいい」ディオールの服を着て、パーティに行くこともあれば、「カッコ悪くない」ファストファッションで無難にやり過ごす日常もあるだろう。長年、愛着をもって着続けているヴィンテージで、デートすることもあるだろう。

 そして、SNSは、私たちのそうした多面性を、単線的に流行を追うよりも、遥かに複雑で豊かな個性として提示してくれる。

「カッコいい」の外観と内実とのギャップと同一化とは、こうした複数の趣味と複数の人格との組み合わせを通じて、楽しまれてゆくこととなるだろう。


脚注

(10)但し、テスラのアイディアは更に野心的で、自動運転車の所有は、言わば投資であり、乗らない時間帯にはシェアリングに提供され、年間三万ドルを稼いでくれる、というヴィジョンが発表されている。

参考文献はこちら


コルク

この連載について

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カッコいい」とは何か

平野啓一郎

『マチネの終わりに』『ある男』を発表してきた平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売の新書を全編連載。 「カッコいい」を考えることは「いかに生きるべきか」を考えることだ。(平日...もっと読む

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editor_NGUCHI なるほど、と思う箇所も多かった 6日前 replyretweetfavorite