5 「ダサい化」という戦略
モードは直進的、スタイルは円環的
ファッションは、かくの如く、常に新しい流行を生み出している。
「カッコいい」には、新鮮さという要素が不可欠である。ランバンのデザイナーとして、カリスマ的な人気を誇ったアルベール・エルバスは、ファッションはフルーツのようなものだと言っている。それは、今のものであり、昨日はまだ早すぎ、明日にはもう食べられなくなってしまうのだ、と。古臭く、見飽きたようなものは「カッコ悪い」とされ、時折その屈折として、レトロなものの価値が新たに再発見されたりする。
明治時代に、日本人が欧米人の服装をどうにか模倣しようとしたように、ファッション業界は、基本的に進歩史観であり、それに一定の循環性を併せ持っている。
イヴ・サン=ローランは、「モードは過ぎ去る。しかし、スタイルは残る。」という有名な言葉を残している。これは、ファッションの本質であって、確かに流行現象はあり、それに便乗しただけのものは時とともに廃れていくが、その際に色や形、素材などを通じて生み出された一つのスタイルは、歴史に然るべき地位を占め、後世に影響を及ぼし続ける。
モードは直進的で単線的だが、スタイルは円環的で反復的である。重要なのは、一つのスタイルが再来し、モードと交わる時、それはかつてとまったく同じではなく、微妙に変化する、という点である。
七〇年代とともに滅びたと思われていたベルボトムは九〇年代に復活したが、まったく同じではなく、ラインはより体形を美しく見せるように変更されていた。
私は、近年のラフ・シモンズのカルヴァン・クラインのコレクションを見て、さすがに〇〇年代のブーツカットくらいなら、まだ穿けるのではないかと、クローゼットの奥で眠っていたものを引っ張り出してみたのだが、当時は「カッコいい」と思っていたその股上の異常な浅さが、目が醒めたように、かなり奇異に感じられた。
「ファッションとは醜さの一形式」
伝統衣装には、こんな六ヵ月単位などという急激な流行の変化はなかった。
洋服のトレンドが世界的に共有される、というのは近代以降であり、そのためには、国を越えた人の往来が頻繁で、社会的に「カッコいい」と目されるインフルエンサーが出現し、新規デザインの複製が可能なほど技術的にも規模的にもアパレル産業が発展し、メディアがそれをリアルタイムでフォローし、伝播することが可能になる、といった条件が揃う必要があった。
『婦人の世界』という女性誌の編集に携わっていた時代のオスカー・ワイルドは、『衣装の哲学』というエッセイの中で、フランスからイギリスにもたらされた「ファッション」が「衣装dress」をダメにしたことを嘆じ、「ファッションは儚い。芸術は永遠だ。一体、ファッションとは本当のところ、何なのか? ファッションとは単なる醜さの一形式に過ぎず、断じて耐え難いものであるだけに、我々は六ヵ月毎にそれを変更しなければならないのだ。」と、例によって辛辣だが、含蓄のある皮肉を残している。
一九世紀後半に、既に現在と同様、春夏/秋冬という六ヵ月単位でモードが変化していたことが興味深いが、ここから読み取れるのは、美と対比した際のモードの飽きられやすさ、根拠のなさであり、それはガダマーの指摘の通りである。ワイルドは軽蔑を込めて揶揄しているが、ともかくそれは人為的に変更可能であり、また変更すべきものだということである。
第7章で見るように、近代最初のモードのインフルエンサーは、ワイルドもその代表として数えられる「ダンディ」たちだったが、モードが世界的な現象となってからは、ココ・シャネルやエルザ・スキャパレリ、ジャンヌランバン、クリスチャン・ディオール、イヴ・サン=ローランといったカリスマ的なデザイナーが続出し、映画の隆盛と歩調を合わせて、ハリウッドの女優の着用などが大きな意味を持つようになる。
ワイルドが言うように、モードが安定的に持続しないのは、まずデザイナーが競争的に複数存在するからである。それは、王室御用達の専属服飾係とは異なっており、また個々のデザイナーのクリエイティヴィティは、新シーズン毎に新しい作品を生み出す。
が、そのままであれば、個々にバラバラの服が併存するだけであって、何が「カッコいい」ファッションなのかという共通認識は形成されないだろう。
では、デザイナーたちは、何に刺激されて新しい服を考えるのか? 自身の関心、メゾンのアーカイヴと同時に、当然のことながら、時代の変化であり、その端的な例は、戦中と戦後の服装の変化に表れている。
これは、モードの変化の中でも、根拠のある、必然的なものと言え、それとズレた洋服を着ているというのは、敢えて言うなら、時代の雰囲気に鈍感であるからこそ、「カッコ悪い」のである。
「カッコいい」神話の形成
とは言え、『プラダを着た悪魔』の台詞に見る通り、〇〇年代初頭の色が、ターコイズでもラピスラズリでもなく、セルリアンブルーだ、というのは、あまりに微妙すぎて、必然性を証明し難く、多分に感覚的であり、文脈依存的で恣意的である。
モードの世界では、トレンド・セッターと目されるデザイナーが存在するが、なぜ彼らのデザインがトレンドとなり得るかと言えば、実力は勿論、彼らが〝天才〟である、という一種の「カッコいい」神話の形成に成功したからである。イヴ・サン=ローランを典型として、彼らは二〇世紀後半の最もクリエイティヴな人間としてカリスマ化され、その美的趣味が信頼されている。
更に、同様に才能に恵まれたスター・デザイナーたちが、言わば〝神々の戯れ〟として、その寡占的なコミュニティ内の模倣を、創造的な文化として容認してきたからである。
セルリアンブルーが流行色になったのは、それを「カッコいい」と感じた他の八人のデザイナーたちが、次のコレクションで自作に導入したからである。
権利関係にウルサい昨今の感覚では、そんなのはパクリじゃないか、などと言われそうだが、パリやミラノで開催されているコレクションには、そこに参加するトップデザイナーたちのアイディアの出し合いという意味があり、彼らの間では、それは許されたことなのである。だからこそ、とても着られないような奇抜なデザインで、実際に商品化できない類いの服であっても、その世界観を提示することには大いに意味があるのである。
アイディアは、元祖が常に最上とは限らないように、シェアされ、多様な個性によって揉まれることで発展し、それを『ヴォーグ』のような強い影響力を持つファッション雑誌が、「カッコいい」ものとして周知させる。結果、「ブームになり、全米のデパートや安いカジュアル服の店でも販売され」るといったアパレル業界全体への波及が生じる。もしそうならなかったならば、セルリアンブルーだ、というアイディアは時代に対して説得力を持たなかったということになる。つまり、それを「カッコいい」と感じたデザイナーたちは、感覚的にズレていて、流行の形成に失敗した、という意味である。
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