第5章表面的か、実質的か|​4『プラダを着た悪魔』とモード

ファッションに於ける「カッコいい」の表層性と実質性とは、なるほど、完全な切断は不可能だが、脱着は可能である。身にまとっている以上は一体化するが、その関係は一対一で排他的に結びついているわけではなく、常に変更可能であるーー。平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売の新書を全編連載。 「カッコいい」を考えることは、「いかに生きるべきか」を考えることだ。(平日毎日更新)


4 『プラダを着た悪魔』とモード


ファッションの脱着可能性

 さて、デザインの表面と実質との乖離と合一という問題を考える上で、今度はモードに注目しよう。

 アメリカの有名モード誌の内幕を描いて大ヒットした映画『プラダを着た悪魔』には、冒頭にこんな象徴的な場面がある。

 アン・ハサウェイ扮する見習い編集者アンドレアは、〝悪魔〟のように厳しい編集長ミランダ──アメリカ版『ヴォーグ』のアナ・ウィンターがモデルとされる──の過剰なまでの仕事ぶりをつい笑ってしまい、次のような辛辣な皮肉で叱責される。

「あなたには関係ないことよね。家のクローゼットからそのサエない〝ブルーのセーター〟を選んだ。『私は着る物なんか気にしないマジメな人間』ということね。でも、その色はブルーじゃない。ターコイズでもラピスでもない。セルリアンよ。知らないでしょうけど2002年にオスカー・デ・ラ・レンタがその色のソワレを、サン=ローランがミリタリー・ジャケットを発表。セルリアンは八つのコレクションに登場。たちまちブームになり、全米のデパートや安いカジュアル服の店でも販売され、あなたがセールで購入した。その〝ブルー〟は巨大市場と無数の労働の象徴よ。でも、とても皮肉よね。『ファッションと無関係』と思ったセーターは、そもそもここにいる私たちが選んだのよ。」

 ファッションに於ける「カッコいい」の表層性と実質性とは、なるほど、完全な切断は不可能だが、脱着は可能である。身にまとっている以上は一体化するが、その関係は一対一で排他的に結びついているわけではなく、常に変更可能である。

 まず年齢相応の趣味があり、また流行がある。十代の頃に気に入っていた服を、三十歳になっても着続けていれば「カッコ悪い」し、時代遅れの服装もやはり「カッコ悪い」。前者は、似合わなくなる、という意味であるが、後者は、似合っていても時の移ろいとともに「カッコ悪く」なる。むしろ、流行を追ってみても、似合っていないせいで、ムリしている感じがヒシヒシと伝わってきて「カッコ悪い」ということもある。十代の若者の間で今流行っている服を、三十代の大人が着てみても、年齢不相応で「カッコ悪い」だろう。

 ガダマーが言うように、少し距離を置いて個人的な趣味で言えば、流行の方が「ダサく」、「カッコ悪く」感じられて、こんな服はちょっと着られない、と戸惑うことも少なからずあろう。しかし、多少時間がかかっても、一旦身につけてみると、意外と「カッコいい」と思えてくることもある。

 その意味で、ファッションはその服を選択する人間の趣味の表れという側面と、趣味自体を社会の側から作り直されるという側面との相互作用で成り立っている、と言えるだろう。デザイナーは、単に自分の趣味を押しつけるだけでなく、それによって着る人の社会的な意味が変わることを意識している。ジェンダーにとらわれず、誰もが対等に働く時代には、活動的で、堂々とした服をデザインする必要があるだろう。

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カッコいい」とは何か

平野啓一郎

『マチネの終わりに』『ある男』を発表してきた平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売の新書を全編連載。 「カッコいい」を考えることは「いかに生きるべきか」を考えることだ。(平日...もっと読む

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