第2章趣味は人それぞれか?|コラム①「いき」は「カッコいい」なのか?

「いき」のような、その意味を多くの人が極めて感覚的に、曖昧に了解している概念を、いかにして哲学的に整理し、明確化するか、という九鬼の議論には、「カッコいい」について考えようとしている私たちにも参考になる点があるーー。平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売の新書を全編連載。 「カッコいい」を考えることは、「いかに生きるべきか」を考えることだ。(平日毎日更新)


コラム① 「いき」は「カッコいい」なのか?


媚態、意気、諦め

 近代日本の「カッコいい」論として、すぐに思い浮かぶのは、恐らく九鬼周造の『「いき」の構造』(一九三〇年)ではあるまいか? せっかくなので、この本についても確認しておこう。

「粋ねぇ。」というのは、今でも折々耳にするが、「カッコいい」という言葉と完全に置き換えられる、というわけではない。

 九鬼は、「いき」の三つの契機として、「媚態」、「意気(意気地)」、「諦め」を挙げている。

 まず、異性との関係性である「媚態」がその基調を成し、武士道的理想主義による「意気」と仏教的非現実性を背景とする「諦め」が、その「民族的、歴史的色彩」を規定するというのが、九鬼の考える「いき」の構造である。そう来るか、というほど回りくどいが、簡単に言うと、異性に対するアピールはあるが(媚態)、自己卑下することなく(意気)、報われぬ思いには執着せずにあっさりしている(諦め)、といった態度である。

 同じことだが、定義としては、「いき」とは、「わが国の文化を特色附けている道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したもの」ということになる。これまた難解だが、別の箇所では「垢抜けして(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」だと、より簡潔に言い換えている。〝遊び上手〟とでも言うべきだろうか。

「いき」のような、その意味を多くの人が極めて感覚的に、曖昧に了解している概念を、いかにして哲学的に整理し、明確化するか、という九鬼の議論には、「カッコいい」について考えようとしている私たちにも参考になる点がある。

 しかし、江戸文化の、それも花柳界という限定された場所に特徴的なこの「いき」という価値観を、いきなり日本の「民族的特殊性」にまで飛躍させる論法には、幾ら時代が時代とは言え、抵抗を感じざるを得ない。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

コルク

この連載について

初回を読む
カッコいい」とは何か

平野啓一郎

『マチネの終わりに』『ある男』を発表してきた平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売の新書を全編連載。 「カッコいい」を考えることは「いかに生きるべきか」を考えることだ。(平日...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません