第2章趣味は人それぞれか?|4「恰好が良い」から「カッコいい」へ

自然美という人間には手出しの出来ない世界が基準とされているわけではなく、「恰好」の理想像は、社会的なものだ、ということであるーー。平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売の新書を全編連載。 「カッコいい」を考えることは、「いかに生きるべきか」を考えることだ。(平日毎日更新)


4 「恰好が良い」から「カッコいい」へ


理想はどのように共有されていたのか?

 さて、西洋美学の美と趣味を巡る議論は、これをそのまま「恰好が良い」に適応したくなるほど示唆に富んでいるが、少し慎重に見ていこう。

「恰好が良い」の使用例を見ていると、まず気がつくのは、それが自然に対しては用いられておらず、基本的に人間のすること、作ったものに対して使用されている、ということである(但し、庭木やペットなどのように、一度、人間の生活に入った動植物は、その評価の対象になる)。つまり、自然美という人間には手出しの出来ない世界が基準とされているわけではなく、「恰好」の理想像は、社会的なものだ、ということである。

 そうなると、その人為的な理想は誰が作っているのか? そして、その適合具合は誰が判断するのか?

 美に関して、ヒュームはそれを「批評家」だと言った。江戸時代や明治時代の「恰好が良い」は、果たしてどうだっただろうか?

 和菓子職人の例で言うと、師匠は勿論、批評家ではないが、知識と経験から、その判断力を体得している。しかし、新米の弟子にはまだ難しいだろう。菓子職人ではないが、茶人には当然、「恰好が良い」和菓子がわかるはずである。あるいは、ディレッタント的な通人の中にも、「恰好の良し/悪し」がわかる人がいただろう。

 通りすがりの若い女性の髪型はどうか? こちらは、その「恰好が良い」の趣味が、より一般に開かれている。それでも、誰でも判断できるわけではなく、やはり髪型についての一定の知識が必要で、基本的には子供よりも大人の方が、より的確に「恰好が良い」かどうかを見極められるはずである。

 つまり、それぞれのジャンル毎に理想があり、それと対象との合致具合には程度があり、それを判断する人にも序列がある、ということである。決して、どんな人間にも共通した、自然な趣味がある、というわけではない。

 では、その理想は、どのようにして共有されていたのだろうか?

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カッコいい」とは何か

平野啓一郎

『マチネの終わりに』『ある男』を発表してきた平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売の新書を全編連載。 「カッコいい」を考えることは「いかに生きるべきか」を考えることだ。(平日...もっと読む

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