〈『いだてん』第28回「走れ大地を」あらすじ〉
ロサンゼルスオリンピックが迫るなか、関東大震災からの復興に手ごたえを持つ東京市長・永田秀次郎(イッセー尾形)は、東京にオリンピックを招致する構想をぶち上げる。田畑政治(阿部サダヲ)がロスの前哨戦と位置づける日米対抗水上競技大会が開幕すると、日本水泳陣はアメリカチームに圧勝。本大会に向けて勢いに乗る田畑たちだったが、その矢先に満州事変が発生する。
五・一五事件の受容
五・一五事件は、報道史においても特異な事件だった。わたしたちはこの事件をつい、昭和七年五月一五日という日付によって考えてしまうが、じつは事件の詳細は長らく伏せられ、一年以上を経て人々に新たな形で受容されたのである。
時の宰相である犬養毅が殺された。しかも犯人たちは陸海軍の士官候補生や青年将校たちだった。ことのあらましはすぐに明らかにされ、犬養毅の「話せば分かる」ということばもすぐに知られるようになった。事件は軍の一部の人間による政府を転覆させる試みであり、新聞紙上で軍の責任が問われてもおかしくなかった。
なのに、その後、将校たちの名が明かされることはなく、当事者が何をどのような意図で行ったかも明らかにはされなかった。そして、一部の新聞を除いて軍の責任を激しく追及する記事は少なかった。事件の一端に、農本主義を唱える民間人が関わっていたことが知られるようになると、農民の困窮する生活に関する記事が盛んに掲載され、間接的に同情を示す調子が出始めた。その月のうちに、従来の政党政治は終わり、斎藤実を首相とする「挙国一致内閣」が誕生した。
9月、リットン調査団が柳条湖事件以降の日本の満州における活動や建国運動の正当性を認めない報告書を提出すると、翌昭和8年2月、日本は国際連盟を脱退した。日本は世界から孤立する一方、満州政策をはじめとする軍部の国政に対する力はますます増していった。
被告の名が明かされ、人々が、第28回「走れ大地を」で描かれたような首相官邸における詳しい事件の内容を知ったのは、この国際連盟の脱退のさらにのち、事件から一年以上経った昭和8年の5月のことだった。海軍省、陸軍省、司法省の三省がようやく調書をまとめあげ、報道各社に事件の詳細を発表したのである。
そして、最も人々の注目を集めたのはその後、昭和8年7月から始まった犯人たちの公判だった。彼らの陳述は、単に罪を明らかにするためというよりは、事件における彼らの武勇、そして考え方を開陳するための場となった。彼らが事件にいたる動機として、旧来の政党や財閥、特権階級に対する猛烈な批判を語ると、報道記事は、彼らの姿や態度を称える調子を帯び始めた。被告たちの減刑を嘆願する運動が各地で起こり、それも盛んに報じられた。
たとえば、公判ののちに時事新報社の発行した「五・一五事件陸海軍大公判記」(昭和8年)を見よう。第一回公判の見出しは「士官服清々しく各被告元気に入廷」とある。「長い未決監生活に顔色はやや白身を帯びているがすこぶるの元気、厳粛な法の裁きを受ける人とも見えぬ朗らかさが面(おもて)に溢れている」。犯人というよりは英雄扱いの調子だ。犬養毅に最初にピストルを向けた三上卓の風貌は、こんな風に書かれている。「小柄ながら精悍の気迫が面(おもて)に溢れ、獄中で蓄えられた八字髭をピンと張って若き日の荒木陸相を彷彿たらしめる風貌である」。この表現も三上の風貌を好意的に記している。
事件の物語化
ドラマで描かれた、官邸の日本間で起こった犬養毅と将校たちのやりとりは、この三上の陳述に基づくものが多い。少し引き写してみよう。
『しばらく経って我々は何のために来たかは分るだろうこの際何か言い残すことはないかと尋ねると、首相は頷きながらやや身体を前方に乗出し両手をテーブルに置いたまま、何事かを語り出さんとしたその瞬間、山岸は叫んで曰く「問答無用撃て」と言葉が終るや否や飛込んで来た黒岩が山岸と村山の間から拳銃を発射した音を聞きました。私は山岸の声に「よし」と叫んだが「よし」の終らぬうちに黒岩の第一弾は放たれていた。首相は下腹部を両手で押えて更に前に身体を屈した。私は黒岩の拳銃発射と同時に右手の拳銃を首相の右こめかみに擬し、黒岩の発射に次ぎ引金を引いた、すると首相の右こめかみに小さな穴が明き、そして右頬を伝って血が流れるのを目撃した。 首相はがっくりと頸をテーブルの上に落した。山岸の「撃て」の言葉がなく首相が何事か語り出さんとするのを聞いたら私は首相に「総ては天命である、我々は首相一個人を撃つのではない、安んじて眠れ」と言ってやりたかったのです、首相が斃れるや山岸の声で退出しました』 (「五・一五事件陸海軍大公判記」)
三上の語りに続けて、記者は次のように書く。
「三上中尉は胸中には往来する万感のため言葉が詰まり遂に声涙共下る。語り終ってポケットからハンカチを出し流れる汗を拭う、傍聴者は余りにも凄惨悲壮な首相の最後をはじめて知ってただ呆然としている、緊張と興奮の半刻海軍々法会議改定以来の息詰まる様なクライマックスであった」(「五・一五事件陸海軍大公判記」)
まるでドラマの感想のような書きっぷりだ。 将校たちは、ときには凶行の前に五銭のミルクキャラメルを買ったことや、当時来日していたチャップリンの歓迎会が当初は襲撃対象とされていたことなど、聞き手を微笑ませたり驚かせるエピソードを交えながら、巧みに話を進めた。すでに内部で幾度となく調書をとられ、事件後一年以上を経た彼らの語りは、聴衆をひきつける物語として整理されていた。報道はそれをさらに劇的に演出したのだった。
よくよく考えてみると、現在のわたしたちもまた、ほぼ同じ調子で、ドラマの中の血生臭い争いについて述べていることがある。彼の心の中にはさまざまな思いが行き交ったことでしょう。彼の言葉が詰まり、涙とともに声をあげると、わたしも泣けてきました。緊張と興奮、ドラマが始まって以来の息詰まる様なクライマックスでした。それはわたしたちの胸にひしひしと迫り来るものでした…。わたしたちが物語に対して感じる興奮は、おそらく戦前とほとんど変わっていない。
報道された被告の陳述は、国際連盟脱退後に頻出するようになってきた「非常時」「日本精神」といったことばと結びつけられ、人々の情に訴える物語となった。たとえば、公判の直後に発行された「女性非常時読本」を見てみよう。
「今回の五・一五事件は、そのとれる手段は誠に憎むべき凶悪な行為でありましたが、その動機は我が国固有の精神に基いており、いわば自分の体内から爆発したようなものでありましたから、被告の陳述する意見、思想は我々全国民の胸にひしひしと迫り来るものがありました。すなわちこの事件が社会に対して未曾有の衝撃を与えたゆえんであります。
五・一五事件は日本精神の堕落の行き詰まりに際して打ち鳴らされた警鐘とも言えましょう。」(「女性非常時読本」大日本聯合婦人会、大日本聯合女子青年団共編/昭和8年)
「話せば分かる」と「問答無用撃て!」は、五・一五事件の報道において、しばしば対で語られてきた。「話せば分かる」によって犬養毅の人格を称える一方で、「問答無用撃て!」によって止むにやまれぬ「日本精神」や「昭和維新」の志が褒められる。当時の人々は、これら一見相反する二つのこと、ことばに希望を見いだそうとしながら、決定的な場面でことばを無用と見る態度を受け入れた。それはおそらく、当時の日本政府が、国際連盟という世界との対話の場を蹴って「孤立を恐れない」選択肢をとったことと、無関係ではないだろう。
昭和史はしばしば
満州事変(s6.9)→満州国の建国(s7.3)→五・一五事件(s7.5)→満州国承認(s7.9)
→リットン調査団報告書(s7.9)→国際連盟脱退(s8.2)→世界からの孤立
という風に書かれる。しかし、五・一五事件が人々にどう受容されたかを考えるには、
満州事変(s6.9)→満州国の建国(s7.3)→五・一五事件(s7.5)→満州国承認(s7.9)
→リットン調査団報告書(s7.9)→国際連盟脱退(s8.2)→世界からの孤立
→五・一五事件の全貌発表(s8.5)→五・一五事件の公判(s8.7-)→減刑嘆願の増加
というところまで追う必要がある。五・一五事件は、一年以上の時を経て、国際連盟脱退後の日本における「非常時」の精神を表し、「非常時」に対する覚悟を促す事件として、振り返られるようになってきたのだ。
「君が代」に集まるものたち
第28話「走れ大地を」では、満州事変や五・一五事件の前後に起こった報道に対する規制を思わせる台詞があちこちに込められている。五りんと志ん生が満州事変について「え、でも関東軍の自作自演だったって学校でならいましたよ」「そりゃあ戦後の話だろう。当時はな、日本に都合の悪い記事は新聞、書けなかったんだ」と語っているのも、五・一五事件の直後に緒方直虎が「残念だがこれ以上軍部ににらまれたら潰されかねない」と報道を自粛するのも、その例だ。
しかし、なんといっても画期的だったのは、事件当日のさまざまな青年たちの姿を、オリンピック応援歌という音楽を横軸にして描いてたことだ。この演出がどのようなものであったかについて、以下で考えてみよう。
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