第2章趣味は人それぞれか?|3ヨーロッパの趣味論

実のところ、日本の近世中期以降と同じく、西洋美学でも、一七世紀後半以降、取り分け一八世紀には、「美」を判断するための「趣味論」が盛んに議論されたーー。平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売の新書を全編連載。 「カッコいい」を考えることは、「いかに生きるべきか」を考えることだ。(平日毎日更新)

3 ヨーロッパの趣味論


趣味の世代間闘争

 実のところ、日本の近世中期以降と同じく、西洋美学でも、一七世紀後半以降、取り分け一八世紀には、「美」を判断するための「趣味論」が盛んに議論された。

 例えばヒュームは、『趣味の基準について』(一七五七年)という論考の中で、趣味はなるほど、現実的には多様だが、それらは「人間の自然本性」という普遍的な共通基盤を持っているので、実際には、何でもかんでも「美」と認められるわけではなく、選別されることになるという主張をしている。

 彼は、その「自然主義的な趣味の基準を体現した人を『批評家』と呼び、その人が下す『判決』こそ『趣味と美の真の基準』である、と結論」(4)する。つまり、悪趣味な素人の美の判断は、「批評家」によって否定される、というわけである。

 他方、啓蒙主義の時代に絶大な影響力を持った『百科全書』では、サン=ランベールが、「趣味はしばしば天才とは別のものである。天才はまったく自然のたまもので、天才が生み出すものは一瞬の産物である。趣味は研究と時間との産物で、極めて多くの規則──既成または想出の──の知識と結びついている。」と説明しており、むしろ反自然主義的で、学ぶことで洗練されてゆくものとして「趣味」を定義している。

 いずれにせよ、世の中には趣味が良い人と、悪い人がいる、という点では共通している。

 さて、この認識を念頭に二〇世紀の趣味論を瞥見しておきたい。

 美学者の小田部胤久は、ヒュームのエリート主義的自然主義を踏まえて、二〇世紀の趣味論をフランスの社会学者ピエール・ブルデューとドイツの哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマーを参照しながら論じている。

 小田部は、「趣味には一種の基準が備わっているゆえに、趣味はこの基準から逸脱するもの、あるいはこの基準に反するものを否定する」というブルデューの主張を重視する。ブルデュー曰く「社会的主体は、美しいものと醜いもの、卓越したものと俗悪なものを区別する操作によって、自己自身を卓越化する」と。

 これは、非常によくわかる話で、

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カッコいい」とは何か

平野啓一郎

『マチネの終わりに』『ある男』を発表してきた平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売の新書を全編連載。 「カッコいい」を考えることは「いかに生きるべきか」を考えることだ。(平日...もっと読む

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