神様がマルを描くとその内側が肯定されて有限になる
「ブラジルへの最短距離はここなんだよ」
なっさんは三日に一度はそう言った。
「ここ」とは皇居の濠のことだ。
清掃会社でコンビを組んでいる二人は、昼休みに、現場から行ける距離にあれば出来るだけ皇居の濠のほとりのベンチで弁当を食べる。それはなっさんの習慣だったのだが、次第に僕も、昼にはなるべく濠の水を見ていたいと思うようになった。
なっさんはこの業界に二十年いるのだという。
僕は大学受験のために東京に出てきて、受験に失敗して予備校に一年間通うはずだったのだが六月から勉強ができなくなり、それからなっさんのいた清掃会社にアルバイトで入り、二年目に社員になった。
なっさんは炭水化物ばかり食べている。コンビニのおにぎりも、中身がないものを探し、それがなければコンビニで割り箸をもらって、中身をほじくり出して捨ててしまう。そういうおにぎりを二個食べたあとで、ドーナツを更に二個とか三個食べる。
「ドーナツは即、力になんのよ」なっさんの口癖だ。
給料日には僕にもドーナツを奢ってくれる。僕はフライドチキンとか焼き鳥とか焼き肉とかをごはんと食べたいから、ドーナツなどもらうと困る。けどなっさんは僕にとってただ一人の先輩で上司で親みたいでもあるから、断れない。幸い、奢ってくれるのは給料日の昼だけだから、月に一回その時だけ、我慢して焼き鳥とドーナツ、というような組み合わせにする。
「ドーナツってほっとするのよ」これもなっさんの口癖だ。
「形が丸だろ? 俺、バツばっかの人生だから」
なっさんの自己評価は低い。僕は毎回、その部分が聞こえなかったふりをする。
十月の給料日、なっさんと僕は濠のほとりのベンチでいつものように昼飯を食べていた。目の前を市民ランナーが数人走ってゆく。
「父ちゃんと母ちゃんがブラジルにいんのよ」初耳だ。「弟家族も行ったのよ」弟がいることは知っていた。
「親族で俺だけなのよ、日本に残ってんのは」僕はなっさんと目を合わせる。なっさんの白目はいつも黄色い。今日は充血もしていて、雷みたいに赤い線が入っている。相づちを打つ代わりに、なっさんが奢ってくれたフレンチクルーラーを一口ずつ丁寧に食べる。
「この底が、ブラジルにつながってんのよ」なっさんは濠の水面を見ている。
「もし地球を掘ったら、っていう話ですよね。モグラが掘り進んだら真ん中にマグマがあるから死ぬって、小学校の担任が言ってました」
なっさんは僕の目を鋭く見てから「そういう話じゃないのよ」と静かに息を吐く。
フライドチキンとフレンチクルーラーで僕は胸焼けがしそうだ。
なっさんが会社を辞めたと聞いたのはその年末だ。
なっさんの更に上の人に聞いても、退職理由は知らなかった。
僕はその年最後の給料日に、いつもの濠のほとりのベンチに行き、一人でドーナツを食べる。そしてなっさんがいつも見ていた辺りの水面を見つめる。しばらくして、ドーナツの穴からその水面を見る。
すると、ブラジルにいるなっさんと家族が、丸い家族写真みたいに見えた。
なっさんを真ん中に、後ろになっさんのお父さんとお母さん、右側になっさんの弟、左側に弟の奥さんと子ども二人。なっさんはカメラ目線でニッカリと笑い、焦げ茶色のモグラを抱いている。
真円のドーナツの穴は真空でくぐろうとした蚊が消えてゆく
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