1 語源は「恰好」
あたかもよし
さて、第1章では、「カッコいい」という言葉が、戦前から楽隊や軍隊で使用され、一九六〇年代に入って一気に一般に広まった、という事実を見たが、では、そもそもこの言葉は、それまで日本語として存在していなかった、まったく新しい造語なのかというと、実はそうではない。
第2章では、その歴史を更に遡って、「カッコいい」の意味を考えてみよう。
複数の辞書が、「カッコいい」を「格好良い」、「恰好良い」と表記しており、つまりは「恰好(格好)」が「良い」ことなのだと説明している。(1)
これは、現代の一般的な感覚からも腑に落ちる説で、実際、「そんな恰好の悪いこと、出来るか!」といった調子で、「恰好」と「良い/悪い」との間に文節を認め、「の」や「が」を挟む言い方は、頻繁ではないが、不自然とも感じられない。
これは、歴史的にも正統な考え方なのだろうか? 注目すべきは、「恰好(格好)」という漢語である。
表記としては、「格好」よりも「恰好」の方が古い。「恰」という字は、「あたかも」と訓読みするので、「恰好」を読み下すと「あたかもよし」となる。
「恰」の意味として、『日本国語大辞典』には、「(多く「似る」「如し」「よう」などの語をあとに伴って)よく似ている物事にたとえる場合に用いる語。さながら。まるで。まさしく。ちょうど。」と「ある時期や時刻にちょうど当たる、また、ある事とほとんど同時に、他の事が起こるさまを表わす語。ちょうど。ちょうどその時。」という二つが挙げられている。
私たちに、今関係しそうなのは、前者の方の意味だろう。また、「あたかもよし」は、「ちょうどいいことには。うまい具合に。」と説明されている。
これが、そのまま「恰好」の意味だろうか?
『漢語大詞典』によると、「恰好」の最古の使用例は、白居易の詩「勉閑遊(閑遊に勉む)」(八二四年)で確認されるという。
貧窮心苦多無興
富貴身忙不自由
唯有分司官恰好
閑遊雖老未能休(2)
(現代語拙訳)
貧しさで困窮していると、心に苦しみが多く、興が湧くこともない。
裕福な高い身分につけば、忙しいばかりで自由がない。
ただ、東都分司の官職だけが、詩人の自分にはおあつらえ向きである。
歳を取ったが、のんびり旅をして回ることを、未だに止められない。
千二百年も昔の詩でありながら、今の感覚でも、よくわかる内容だろう。
白居易は、あまり忙しくない地方官吏くらいが、自分には丁度いい、ピッタリだ、と言うために、「恰好」という言葉を用いている。重要なのは、世間的には「裕福な高い身分」の方が羨まれるだろうが、自分にとっては、「東都分司の官職」の方が良いと、個人的で、主観的な価値観が語られている点である。