朝じゃないんだけど、夜7時頃だったか、仕事場の近所の銭湯に行った。もう夏なんで、銭湯に行くのが全然おっくうじゃない。サンダルですぐ行っちゃう。気分転換、気持ちとからだを簡易リセットするのに、銭湯ほどいいものはない。
裸になって浴場に入ると、がらんと空いていて、汗を流して湯につかったんだ。浴槽には知らないおじいさんがひとり、壁を背にして入っていた。ボクはその人と斜向いに、富士山のペンキ絵のほうを向いて肩まで湯に沈んだ。湯の中で手足を伸ばすと、たちまち仕事の緊張や無意識のストレスが、湯に溶け出ていく。あー、いい。広い風呂はいい。俺は残りの人生、生きている限り、何度でも言ってやる。ボケるまで言う。
風呂はいい。
広い風呂はいい。
銭湯はいい。
温泉はいい。
露天風呂はいい。
朝風呂はいい。
昼風呂もいい。
夕方風呂もいい。
仕事帰りの風呂はいい。
一杯やる前のひと風呂はいい。
寝る前の風呂はいい。
夏も、秋も、冬もそして春の風呂も、それぞれにいい。
やっぱり風呂は、しみじみと、あっけらかんと、ゆったりと、のびのびと、おだやかに、晴れ晴れと、気持ちがいい。
そういう気持ちで、ある種の放心状態になっていたら、
「おぉ、なんだか白いのがたくさん入ってきたぞぉ」
と、向かいのじいさんがつぶやいた。
いつの間にか、おじいさんの向こう側の深い浴槽に、白髪の男が入っていたので、彼に言ったのかと思った。白髪はなにも答えない。
ボクはそのまま湯につかっていて、何の話かと思った。おじいさんはそう言うと、立ち上がって浴槽を出ていった。なんとなくボクは湯の中で移動して、向き返って、壁を背にした。
ギョッとした。
脱衣場から、全身真っ白なニンゲンが入ってきた。
頭の先から足の先まで、白墨のように真っ白。そして、胸から腹にかけて、片仮名の「キ」の字のような細く黒いすじが入っている。
一瞬湯の中で身がかたくなった。どうしていいのかわからなくなった。
と、そのあとから、もう一体、白いのが入ってきた。ところがその一体は、なにか声を発し、笑った。
もう一体続いて入ってきた。そこで頭が理解した。
暗黒舞踏。
白塗りの踊り手たちだ。髪も剃り上げて、白塗りしている。よく見ると、肌色の皮膚が露呈している者もいる。何か衣装的なものをまとっていたのだろうか。髭だけ黒くしているのや、白い肌に黒で線を入れているものもいる。
どんどん入ってきて、十一人になった。
おじいさんは、脱衣所へのガラス戸越しに、彼らを見たのだろう。
ああ、驚いた。最初の男が異様過ぎた。入ってきたときの歩き方も、今思うとちょっと舞踏めいていたのかもしれない。ホッとしてからだが今一度ゆるんだ。あはは、おっかしいなぁ。どこかこの近くで舞踏の舞台があったのだろうか。それとも稽古場があるのか。
踊り手たちは、ぼそぼそ話したり、時々笑ったりしながら、慣れた手つきで白塗りをお湯で落としていた。いいものを見た。
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