シロナガスクジラ一頭死んでゆく沈没船たちの母艦として
「山鯨(やまくじら)食いにいかねえか」仁助が声を落として言ってくる。
山鯨は猪の隠語だ。獣食いが禁止されているため、兎を鵜鷺(うさぎ)と書いてみたりして何とか我々は獣を食おうとする。
やはり獣を食うと血が騒ぐ。吉原で女を買った時と一緒で、動物の血が滾る。俺は獣なんだと解放されて、どこまでも闇の中を疾走したくなる。
飛脚の仕事をしている仁助や俺は、危険を冒してでも獣を食わなければへたってしまう。
仁助に案内され、峠まで来たが、そこで仁助を見失った。日没が近く、辺りは闇に浸り始めている。人気のなさに急に怖くなり、灯りを探す。
遠くにぼおっと照らされた看板が見える。近づくと「山鯨」と書いてある。
なんだ、ここか。安堵して引き戸を開く。するとこの間の吉原の女がいる。
「お遊か?」
聞いても答えない。
俺はこの間したように、お遊の首筋を甘噛みする。
襟元から手を入れ、着物の中に入っていく。椿油の香りに噎(む)せながら、女の体をほどいていく。襦袢の赤と乳房の白が俺の指先を吸い込む。俺は温かな沼にはまった蛇のように、女の体を這いずり回る。女が波打ち始めると、俺は体を波間に入れる。
この間と、まるで一緒だ。
いくら同じ女との交わりでも、こんなにおんなじ訳がない。
おかしい。
俺は我に返る。
振り返って引き戸の方を見ると引き戸がない。
俺は土の上で、月明かりに照らされながら素っ裸で寝そべっている。
女もいない。
着物を着直し、道らしきものに出る。雨など降っていなかったのに、道は湿っていて歩きにくい。どこかから饐えた臭気がする。
いつの間に酒を飲んだのか、足がふらついて仕方ない。道が俺の足を吸い込んで離さない。飛脚の意地で俺は歩く。少し小走りにする。
次第に足応えを感じる。泥濘を脱したらしい。
小山が見える。麓から上がっていく。
いい予感がする。俺の土地勘は正しい。
案の定、小山を上がりきると日の出が見えた。
俺は日の出に向かって走る。東に行けば帰れるはずだ。
日の出に抜けるには白い崖を越えなければならなかった。
俺はもう草履を履いていなかった。履き潰して消えたらしい。
白い崖を越える。
眩しいほど朝だった。
振り返ると、見上げても見切れる巨大な鯨がいる。
山だと思って分けいっていたのは鯨の体内だった。
白い崖は鯨の歯で、その前の小山は囀(さえず)り、舌だ。
俺は、溶ける前に鯨の体から抜け出たのだ。
吉原の女と心中したと専らの噂だが、仁助はあの山鯨に食われたに違いない。
俺の裸足の足裏には、おきあみが生臭くへたりついている。
七大陸はそれぞれが異なる鯨の背中辺りのやわらかな部分
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