常時70〜80種。家族3人で営む驚異の大衆食堂【さば塩焼き定食】やしろ食堂

地元民から愛される絶品メニューがある。キャベツがぱりっと新鮮。漬け物はできる限り自家製。安い。女ひとりもOK。5条件を満たす定食屋を『東京の台所』の著者・大平一枝(おおだいらかずえ)が訪ね歩く。儲けはあるのか? 激安チェーン店が席巻するなか、なぜ地価の高い都会で頑張るのか? 絶滅危惧寸前の過酷な飲食業態、定食屋店主の踏ん張る心の内と支える客の物語。商店街に根付き、地元で愛されながら営む店を紹介する。

 メニューを書き写しかけたが早々に諦め、スマホで撮った。

 人気の肉豆腐バクダン定食をはじめとする定食セットが25種。焼き魚が11種、サーモン黒酢煮定食など旬で変わる特別セットが8種。カレーと丼ものが5種、それ以外に煮物、揚げ物、刺し身、サラダ、卵料理、肉料理、漬物が常時70〜80種類。

 カウンターには惣菜の大鉢がずら〜っと並ぶ。


フクさんは接客担当。左が武雄さん。頭上のメニューはほんの一部

 初めて入ったとき、壁の献立の文字とカウンターのずら〜っが視界でひしめき合い、混乱した。目移りしすぎるのと頼み方がわからないので、お隣のひとりで来ていたおばあさんのオーダーを真似した。

「あじフライと白瓜の酢物ときんぴら、ご飯とお味噌汁ね」

 そうか、メインを決め、あとは小鉢を何品か頼むのだな。それは楽しそうだ。しかし、結局迷いまくる。

 目の前のガラスケース(カウンターの大鉢とは別)の中の小鉢とにらめっこしながら決めたのは、「赤魚の西京焼き、煮物2点盛り(厚揚げ、肉じゃが)、ポテサラ、ご飯、味噌汁」。

 はい赤魚の西京焼きぃ〜! と、うちの母くらいの年齢の背の低いおかみさんが元気よく厨房に声をかける。夫らしき店主と若い男性が、あいよ〜と答えながらまめまめしく働く。

 どうやら家族らしい。

 この膨大な献立をこの男性ふたりで作っているのか!

 6〜7分で定食がきた。前述の隣客はフライを残して会計を頼んでいる。

「あじフライ、持って帰るわ」

 はいよ〜とまたおかみさんのにこやかな声。

 もしもひとり暮らしだとしたら、お年寄りが家で揚げ物をするのはけっこう大変だ。ほんのひと切れ食べたいというときこんなお店が近くにあって、買って帰れたらどんなに助かるだろう。


方南中央通りの一角。方南町駅から90m

 地元民に愛されているなんていう言葉を安易に使いたくないが、少しいるだけでどうしたってわかってしまう。客とのやり取り、店に漂う空気、気取らない惣菜の数々、それを頬張る人々の満足そうな顔。

 常連だけでなく老若男女がひっきりなしに訪れるこれぞ、正しい大衆食堂。丸ノ内線の終点の小さな町、方南町が誇る財産である。

敗戦の年に生まれた店主は憧れの東京に

 やしろ食堂は1971年、中村武雄(74歳)・フク(72歳)夫妻が開店した。ともに新潟県出身。武雄さんは阿佐ヶ谷のやしろ食堂で6年修業をした。当時、阿佐ヶ谷・高円寺・目黒・荻窪・都立家政など、全部で13店舗あった。オーナーも新潟出身で、みな、のれん分けで広がったそうだ。米はもちろん新潟産で、安くてうまい。どの食堂も人気を博し、本部を設立した時期もあったそうだ。

「俺は柏崎市出身で、終戦の年に生まれてね。東京はいいなあって憧れて上京したんです。敗戦後、なにもない時代を知っているから、お腹いっぱい食べられる飲食をやりたかったの」

 武雄さんは語る。東京で隣の飲食店に勤めていた同郷のフクさんとは修行1年目の20歳のときに結婚した。

 以来62年間、変わらずこの地で営業を続ける。

 平日は11時から22時まで。土曜日は21時まで。唯一の定休の日曜は、食材の買い出しや仕込みがある。

 別の仕事に就いていた息子の尚人さん(44歳)は、高齢の両親を見かねて2年半前から手伝っている。

 とはいえ、家族3人でこの品数をこなすのは大変な作業だ。


バブル直後がもっとも経営が苦しかった。10~20円値上げしたがお客が来てくれたことに助けられた

 フクさんに店を終えてからの日課を聞いた。

「22時に閉店したあとゴミ出しや片付けをして、家に帰るのが23時。すぐ寝るのはもったいなからテレビ見ちゃうの。2時頃寝て、8時に起きてお店へ行きます。下ごしらえの担当は、私は煮物。昼間も通し営業だから、自分の昼食は交代で様子を見はからってささっととるの」


息子の尚人さん。父の書いたレシピノートに日々上書きをしている

 揚げ物担当は尚人さん。それ以外のものを作る武雄さんは朝7時には出勤するという。

 朝の下準備は自分の担当が終わったらいったん引き上げるそうだが、ほぼ15時間近く働いている計算になる。毎回、本連載で痛感するが、定食屋はじつに重労働で、働きづくめの人が多い。70代で、それはきつくないかと武雄さんにぶしつけに尋ねた。

「働くのは好き。新潟でものがない時代、苦しいこといっぱい体験してきたから、ちょっとは辛抱強いかもしれないよね」

 定食屋さんも最近は、15時から2〜3時間閉める所がありますよ?

「うんたしかに重労働だけどさ、俺ちょっとでも休むともう動けなくなっちゃうから。お客がいなくても、刻みもんとか下ごしらえを始終してるしね。どうせ厨房に立ってるんだから、店開けとく方がお客さんが入って得でしょ?」

 フクさんも異口同音に。

「休んじゃったら、そのままだらっとしちゃってカムバックできないから」

 尚人さんが最近まで手伝わなかったのは、そんな二人をずっと見て育ったからだ。

「朝から夜まで一日中ここ(店)にいるのかーと。ふたりとも家に帰宅するとくたくたに疲れ切っていてもう本当にやばい。この商売をずっと見てきたら、誰でも絶対手伝おうって思わないと思いますよ」

 しかし、穏やかな口調で語るこの助っ人の、厨房での機敏な動きの見事さったらないのである。さり気なく、入ってきた客がメニューのどのあたりを見ているかを観察し、フクさんにオーダーをする瞬間、調理に取り掛かる。客を待たせないというポリシーが徹底している。


さば塩焼き定食。煮物は厚揚げ、しいたけ、こんにゃく、里芋に、たけのこ、人参入り

 そして、きゅうりのぬか漬けやズッキーニの炒め物のようなシンプルなおかずから、チキンカツ、カレーライス、さばの塩焼きなどボリュームのあるものまで、どれもおいしくてハズレがない(すべてを食べ尽くしていないので、「全部」といえないのが悔しい)。皿いっぱいに横たわるさばは脂が乗り、身が詰まってそれだけでも存在感のあるごちそうだった。塩の塩梅もちょうどいい。


カツカレーライス850円。市販のルーにスパイスを加えている。これもまたちゃんと旨い

「親父にはもうこれ以上メニューを増やさないでって母と言ってるんですけどね。親父は食材を買い出しに行くと新しい野菜を買い込んでは、次々と新レシピを考案してしまうんです」

 いや、ズッキーニの料理を考えたのはお母ちゃんだよーと、武雄さんは否定する。誰が犯人か定かではないが、やしろ食堂のメニューは現在も、増え続けている。

安らぎの理由

 どこで聞いてくるのか、外国人の常連も多い。ここ1ヶ月毎日来ているというフランス人の青年は、椅子に座る前に慣れた口調で、「味噌スープ、プロッコリー(サラダ)」と不思議な組み合わせの注文をしていた。

「この方は納豆でも何でも食べるの。今日はどこかで食べてきたあとねきっと」と、フクさん。お母さんみたいに何でも知っている。

 ミュージシャンらしきスペイン人の男性も、日本人の仲間と昼間からうまそうにビールをあおリ、音楽談義をしていた。つまみはから揚げだ。


昼間、ひとり客の男性が慣れた様子でイカ焼きをつまみにビール1本。30〜40分で店をあとに。1000円で釣りが来た

 その隣は15年間通っているという年配のタクシー運転手ふたり組。こちらはビールに刺し身を。酒に酔い、少し顔の赤い一人が今日は仕事が休みなのだと教えてくれた。

「タクシーの仕事が終わったらここ寄るの。休みは昼間から来てこうやって飲むのが楽しみでさ。ここのいいところ? 俺らみたいなやつからフランス人や若いやつもいろいろいるのに、15年間一度も喧嘩を見たことがないことだね」

 つまりは平日も休日も、結局毎日来ているらしい。


肉豆腐バクダン定食。濃いめの甘辛味は、半熟卵がからむことでマイルドに

 武雄さんによると、肉豆腐バクダン定食がいちばん人気なのだそう。バクダンとは玉子のことで、すき焼き風に味付けした肉豆腐に半熟卵がとろりとからむ。惣菜2種、漬物、御飯と味噌汁がついて870円。甘辛だれが豚肉と糸こんにゃくによくしみており、豆腐も大きい。そもそも、この店のポーションはどれも大きい。まったくみみっちさがない。味噌汁は、わかめ・玉ねぎ・もやし・大根・白菜・豆腐入り。

 私はさば塩焼き定食に、揚げなす200円も追加してしまった。甘味噌のかかった懐かしい味。こんなに食べても1070円。ちなみに今が旬の白瓜の酢の物は150円。

「がっつり系からさっぱり系まで全部揃う。だから安らいでもらえるのかもしれません」

 尚人さんが控えめな口調で語った。ずっと見てきて、実際に厨房に入って2年半の彼だからこそ、正しくやしろ食堂を俯瞰できるのではないか。私はそう思って、問いかけた。

 ──ご両親の店を手伝ってみて気づいたことはありますか?

「何が起こるかわからないこういう大変な世の中で、人が人を信頼するのって大変なこと。だからこそ、単純かもしれないけど、うちみたいな人と人が繋がりあえる場所は世の中に絶対必要だと思うんです。ずっとあってほしいという思いで手伝っています」

 ぐっとくる言葉をサラッと言って、尚人さんは厨房に消えた。さて、取材終了。



昨年、初期がんを患った武雄さんを妻と息子がそっといたわり、仕事中も父の休憩時間に気を配っていた

「飲んじゃいましょうか」「ええ、そうしましょう」。この連載には珍しく、編集のモトさんとカメラのナンバさんと、昼間だというのにビールやレモンサワーを次々頼んだ。そういうことをしたくなるふるさとみたいな安らげる空気が、この店には充満している。たしかに仕事でクタクタの夜も、オフで爽快な昼も来たくなる。ああ、次に行ったら何を頼もう。やしろ中毒者3名の小さな宴が続く。

(撮影/難波雄史)

「やしろ食堂」
東京都杉並区方南2-12-29
電話:03-3313-6010

<次回は9月3日(火)に更新予定です>

台所の数だけ、人生がある。お勝手から見えてきた、50人の食と日常をめぐる物語。

東京の台所

大平 一枝
平凡社
2015-03-20

この連載について

初回を読む
そこに定食屋があるかぎり。

大平一枝

絶滅危惧種ともいわれながら、今もなおも人々の心と胃袋をつかみ、満たしてくれる「定食屋」。安価でボリュームがあり、おいしく栄養があって…。そこに定食屋があるかぎり、人は店を目指し、ご飯をほおばる。家庭の味とは一線を画したクオリティーに、...もっと読む

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soramame_tette 今回もおいしそう! → 約18時間前 replyretweetfavorite