※平野啓一郎が序章で述べる通りの順で配信させていただきます。「全体のまとめである第10章にまずは目を通し、本書の肝となる第3章、第4章を理解してもらえれば、議論の見通しが良くなるだろう。」
5 「義理」こそ「カッコいい」?
宋学の「義理」
「仁義」は勿論、ヤクザ社会のキーワードであろうが、日本の思想史的な観点からすると、『仁義なき戦い』は『義理なき戦い』とした方がより正確だったかもしれない。そして、私たちが考えようとしている「カッコいい」は、「恰好が良い」だけでなく、恐らくは、この「義理」もルーツに持っている。
義理というと、〝義理と人情の板挟み〟といった近世文学の主題がすぐに思い浮かぶが、日本思想史が専門の源了圓によると、元々、「義理」は、「礼儀行為が事宜に合致するという意味の『義』と、玉の条理から物事の条理、すじみちという意味になった『理』との複合語として、中国の春秋・戦国期に成立し、秦漢時代に中国の社会や文化に定着した」言葉だという。そして、「義」は「『礼』だけに限らず、『道義』ということを含めて『社会生活の中で人が処さねばならないこと全般』へ拡がっていった」(2)。
義理という概念を発展させたのは宋学で、その理由は、商業の発展が利己主義を招き、また、北方の異民族の脅威が漢民族の危機として受け止められる中で、当時の主流な学問であった仏教と老荘が、人倫(人としての倫理)について無関心だったから、とされる。いずれも存在論的な思想なので、危機下ではより実践的で具体的な知が求められたのだろう。
更に孟子の影響を受けて、「義」が相対的に不安定とならないように、「理」に一種の形而上学的な〝普遍の正義〟としての水準が導入された。
この「義理」が九世紀になって日本に輸入され、歴史的に意味が変遷するのだが、源は、その語源との相違を次のようにまとめている。
「わが国の場合は、『義理』はAとBとの間の個人的関係における『好意の返し』『信頼の応答』であって、その関係が絶対であり、それを超える価値がほとんど存在しないが、宋学の義理は人間関係の道徳でありつつ、『天地』ないし『天』の文脈の中で論じられる。人間関係の義理は、天理に裏づけられねばならない。」
中国の義理は、このような超越論的な規範であったが故に、「義理と人情」の相克といった悲劇はほとんど生じなかったという。当然、義理に従うべきだからである。
人情が義理と拮抗するのは、それが単なる人間関係の規範である場合である。
統治のイデオロギーとして
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