序章 this moment
大切なモノを捨てていくことが、本当に大切なモノにアクセスする手段となる。
もともと、モノへの執着は人並みに強かった。
身の回りのモノをごっそり捨ててしまう、俗に言う〝断捨離〟を経験したのは、だいぶ大人になってからだ。
2011年6月、ライブドア事件の裁判を経て、僕は長野刑務所に収監されることになった。その直前に、六本木の自宅を引き払うことになり、持ち物の大部分を、ごっそり処分した。
知り合いのなかでも、僕はモノには執着しない方だと思っていたが、それでも結構な量があった。友だちにあげたり、業者に引き渡したり……モノを捨てきって、がらんとした部屋に、ぽつりと立った。
思い出したのは「ナスビさんチョッキ事件」だ。
幼稚園の頃の話だ。
僕は白地にナスとニンジンなど、ファンシーな野菜の絵が描かれたチョッキを愛用していた。「ナスビさんチョッキ」と呼んでいた。
これさえ着ていればご機嫌で、一番のお気に入りの服だった。
あの頃の僕には、間違いなく、宝物のひとつだったと思う。
どうしてそんなに大事にしていたのか? 特別なプレゼントというわけでもなく、手に入れるのに苦労したわけでもない。大事にしていた理由が、自分でもまったくわからなかった。
しかし、大事なモノだと一度思いこむと、その感情は、強く固定化してしまう。これは子どもだからではなく、大人も同じだろう。
僕はナスビさんチョッキを、大切にしていた。
ずっと自分のモノであると信じていた。
だが、成長が早い子どものこと、幼稚園の年長ぐらいに、サイズが小さくなった。
着られなくなったので、チョッキはタンスの奥に仕舞われていた。
それでも大事なモノであることには、変わりなかったのだけど……。
ある日、ふとタンスを開けたら、ナスビさんチョッキがなくなっていた。
「ナスビさんチョッキはどこにいったの!?」
すると、ママ仲間同士で服の譲り合いがされたとき、知人の小さい子のところにチョッキをあげてしまったのだという。
僕にひと言ぐらい訊ねてくれてもよさそうなものだが。それを聞いて、しばらく涙が止まらなかったのを覚えている。
その後、数日間は、悲しい気持ちがおさまらなかった。
手元に、それがないという現実を受け入れるのが、辛くてしょうがなかった。
母親からしたら、あんなどこにでもあるようなチョッキを、なぜそんな大事にしているのか、不思議だったことだろう。
現在の僕も不思議に思う。それを大切にする意味は、まるでない。
でもそれは後になってから、思えることだ。
大切なものは、大切だった。
その喪失感は、今も鮮明に思い出すことができる。
別に、チョッキに思い入れがあるのではない。
大事だと「思いこんでいるモノ」にとらわれていた、原体験のエピソードとして、記憶に残っている。
あなたにも、経験があるだろう。
なくしたときは悲しんだけれど、後々になってからは「なんであんなものを大事にしていたんだ?」と、首を傾げてしまうようなモノを持っていた。
子どものときだけでなく、つい最近も、経験したのではないか?
必要な道具、宝物、それが人生を豊かにしてくれると信じている多くのモノに囲まれて、人は暮らしている。
だが、ほとんどのモノは、「大切」という幻想のパッケージにくるまれた不要品だ。
不要品という表現は厳しいかもしれないが、それらを失ったところで特に何ともない。まず命までは、奪われたりしない。
逆に、持ち主の決断や行動を縛りつけていることもある。
本当に大切なモノへアクセスするのに、障害となっているのだ。
僕も、かつては人並みに所有欲にとらわれていた。
だが、これまでに経験したさまざまな別れや喪失を経て、いまは完全に解放されたと思う。
それは自分の意志だけではなくて、僕の場合は国から、半ば一方的に捨てさせられた事情もあるが、それでも捨てたこと、なくしたことへの後悔はなかったりする。
モノがなくなり、身軽になるほど、行動のスピードは上がり、アクセスする情報や世界のステージは高まっていった。
大切なモノを捨てたことで、もっと大切なものが、自分のなかで明確になっていったような感覚だ。
モノを持つことを、否定はしない。
何かに執着する気持ちも、宝物を愛する気持ちも、モノを得るためには、何がしかの努力をしなくてはいけないことも、理解している。僕もかつてはそうだった。
そんな時代を過ごして、たまたま何度か、その欲を満たすことができた。だからこそ、モノをほとんど持たなくても不安にならない、逆に本当に大事なことだけに突き進んでいける、現在の心境にたどりつけたのかもしれない。
いろんなところで語っているが、いま僕には家がない。いわゆるノマドな生活をしている。
東京にいるときは、あるホテルが定宿だ。
私物は、スーツケースに4つほどで収まっており、そのホテルに保管している。スノーボードのボードとか、アクティビティ系の少しかさばるものは、別のオフィスの一角に置いてあるが、ごくごくわずかだ。家具も家電も持っていない。
移動のときはスマホを持つぐらいで、基本的には手ぶらだ。
財布は持たない。マネークリップには自動車の運転免許証、小型船舶操縦士免許証、健康保険証、クレジットカード3枚、キャッシュカード2枚、PASMO、現金、それだけだ。ノートパソコンも使わなくなった。
周りから言わせると驚くほどの軽装らしいのだが、一体このほかに何を持つべきなんだろう?
この程度の持ち物で、大概の人よりも多くの仕事をこなし、楽しく、刺激いっぱいの人生を過ごせている。
いま、この本を読んでいるのが、あなたの自宅なら、少し部屋を見まわしてほしい。
きっと大切なモノが、たくさん置いてあるだろう。
お気に入りの洋服、高かったブランド品、好きな人からもらったプレゼント、好きなアーティストのグッズ、仕事先の名刺ファイル、資格勉強の参考書、親からの手紙……部屋の外には自転車やバイク、パーツにお金をかけた車もあるかもしれない。
「どれも大事」
「ずっと死ぬまで持っていたい」
「これがあるから自分は頑張れる」
そういった気持ちがこもっているモノも多いはずだ。
そして、形のないモノも持っている。
親への恩、仲間内での義理、借りを返す責任、上司からのプレツシャー、習い事の約束、飲み会や遊びの予定、締め切り、嫌いなやつへの怒りや恨み、将来への不安……。
ポジティブなモノはさておき、持っている事実を認めるだけでため息が出る、ネガティブな感情も少なくないと思う。
あなたの持ち物は、良くも悪くも、たいてい「捨てられない」「捨ててはいけない」ものばかりだ。
でも、あえて聞こう。
本当に? 本心から、そう思ってる?
なくなっても、大騒ぎするのは、そのときだけじゃない?
それを捨てても、あなた自身を含めて誰ひとりあなたを責めないはずだし、困ることもないでしょ。
あなたはモノが大切なのではなくて、いま持っているモノにまつわる、人間関係や安心感に、見捨てられるのが怖いだけなんじゃないか。
断言する。モノへの愛は、ほとんどは思いこみである。
あなたが愛しているほどに、モノの側は、あなたを愛していない。
モノに囲まれた偽の充足より、それを大胆に捨てて、軽やかに走りだす爽快感を選んでほしいのだ。
モノの量は、思考の密度を奪う。
「なくしたらどうしよう」「それを失うと自分が欠けてしまう」という、余計な不安が頭のなかに生じる。
安心するために必要だったモノは、逆に不安を増幅する装置となる。
自分の命以外の何も所持していない、赤ん坊に何か不安があるだろうか?
それは極端な例かもしれないが、所有しているモノが少ない者が、不幸であり、満ち足りていないとは、決して言えない。
僕らは、所有欲に振り回されなかった、赤ん坊に戻っていいのだ。
テクノロジーの急速な進化の結果、信用評価による経済活動やシェアリングエコノミー、クラウドファンディングなどの支援の仕組みが成熟しつつある。富の再配分のシステムについても、ベーシックインカムの方が合理的ということに遠くない将来、みなが気づき始めるだろう。
人は誰かの助けの手を得やすくなってきた。助けを与える側のハードルも下がってきた。
たとえ、お金やモノがなくても、昭和や平成の最初の頃の「お金持ち」と同じような暮らしが享受できる社会になりつつある。
あなたは決して、独りきりではない。
いまは孤独を感じるかもしれないが、あなたを囲んでいる不要品が、視界を遮っているだけだ。モノの壁の向こうには、助けてくれる人が大勢手を差し伸べている。
それがこの社会の真実であることを、僕はずっと説いていく。
「常識や理屈に縛られ、思考停止した生き方をしている人が、どうすれば自由に生きられるのか?」
これは、僕が近年ずっと探求し、世に送り出した何十冊もの著書で発信してきたメッセージの根源にもなっているテーマだ。
繰り返すが、僕はすでに所有欲からは解放されている。
禅僧のように超然としているわけではない。ナスビさんチョッキを失って泣いたように、「捨てる」行動や選択には、時に痛みや寂しさが伴うというのもわかっているつもりだ。
僕も昔は、あなたと同じように、モノを大切にしてきた。
さまざまな出来事や実践に際して、「捨てる」作業をひとつずつ、人と同じように繰り返してきた。そうして現在の「持たない」暮らしに至っている。
僕のある種の強さは、「捨てること」と「持たないこと」の徹底した積み重ねが、基礎になっていると言えるだろう。
豊かに生きるには、モノや他人への執着を捨て、いまを生きること。
他人を気にせず、自分の気持ちに従うこと。
ケチにならず、分け与えることだ。
格好つけているわけではない。これが、この世の真理である〝諸行無常〟に最適化した方法なのだ。
誤解されたくないが、別に僕は諸行無常を人生のテーマにしているのではない。
昔、インタビューなどで「座右の銘は?」と問われ、面倒くさいから「諸行無常」と答えることもあったが、これをモットーに行動や選択を行っているわけではない。
自然な、自分にとってストレスのない選択を重ねていくと、結果的に諸行無常に即したスタイルになった、というだけのことだ。
諸行無常は「捨てること」に通じる。
すべてのものは移り変わる。
だから、いつまでも同じモノを持ち続けることはできない。
持ち続けようとこだわると、矛盾と軋轢を生むのだ。
この〝断捨離〟がうまいか下手かで、移り変わりのスピードが加速度的に速くなり続ける現代における幸せの量が、大きく変わると言っても過言ではないだろう。
ふだん過去を思い出すようなことは滅多にないが、本書では久しぶりに40代後半までの半生を振り返り、僕なりの「捨てる論」を明かしていこうと思っている。
僕はお金の啓発やビジネスの成功法、人生への指南や思考論など、多くのテーマで本を書いてきた。今回はいつも以上に、自分には当たり前すぎるほど当たり前で、読者へのおせっかいの度合いの強い本になるだろうと、いまから感じている。
最初に、語るべきことをまとめて言うなら──。
「あなたは本当に必要なモノが何なのか、わかっていますか?」ということだ。
そう言われて、イラッとするより先に少しでもドキッとした人は、ここから語っていく話を読む意味が、大いにあるだろう。
「所有」という概念はだんだんと溶けていき、やがては遺物になっていく。
シェアリングエコノミーは、若い世代から順番に、ライフスタイル、ひいては社会の常識を、変えていこうとしている。
価値(値段)の高いモノを「どれだけ持つか」よりも、「どんな価値観を持つべきなのか」が、真剣に問われる時代になっていく。
モノに縛られ続けるか、モノを飛び越して好きなように動いて暮らすのか、選ぶのはあなた自身だ。
僕はもちろん、すべての人が、後者であってほしい。
2011年、著書『お金はいつも正しい』で、僕は次のように書いた。
[これから世界は、加速度的にグロスからネットの社会に変わっていくでしょう。GDPや売り上げのようなグロスを追う時代は終わり、「中抜き→デフレ」が進む中で、実質的なクオリティ(=ネット)が重視される時代になるわけです。
それは、バカ高いブランドものより、自分にとって本当に必要なものが優先されることを意味します。自分が求める「質」を大切にしていれば、たとえ低いとされる年収であっても豊かな生活が送れるようになります。]
8年前、スマホがまだ普及していない頃の談だ。だいぶ時を経てしまったが、言いたいことの軸は変わっていない。
豊かな生き方とは、お金にまつわる既成概念から、解放された先にあるのだ。
しかし旧来の既成概念は、いまだ解かれず、多くの人々が古い常識や価値観にしがみついて、自ら苦しんで生きている。
長年繰り返して、自分の思い出したくない過去や恥ずかしい話も引き合いに出しながら、声の限りに、本質的な意見を述べ続けているのに、なかなか世のみんなは変わらなかった。多少の無力感を感じないでもないが、僕は挫けていない。
別に世のため人のためにやっていこう、なんて考えていない。
僕なりに実践や提案を続けていくことで、結果的に社会をバージョンアップさせる一助になればと思っている次第だ。そうすると、僕のストレスも少し減ってくれる。
まずは本書が、あなたに「捨てる勇気」を与え、人生の余分なウエイトを取り除ける手助けになれば嬉しい。
読み終わったとき、いまこの瞬間より身軽になって、新たに動きだそうと踏み出してもらえたら本望だ。