早く子供が欲しいんです。もう若くないし」

40歳独身の桜子は外食産業の会社に勤めて18年。新規オープンするイタリアン・レストランの新メニューとして、チョコレートソースを使ったパスタを開発中。ところが、頼りにしていた後輩に「寿退社」することを打ち明けられ……。 「産む性」として揺れ動く女性たちの心の葛藤とそれぞれの人生の選択を描いた8つの短編集『産む、産まない、産めない』の「最後の選択」より特別掲載します。

(カバーイラスト:近藤圭恵 / モノクロイラスト:オカダミカ)

 自由でいたいなら、同じ分だけ孤独を引き受けなければならない。

 好きな時に食事をして、眠くなったら寝て、観たい番組を観て聴きたい音楽を聴く。したくなければ何もしなくてもいいし、その気になればどこにでも旅立てる。明け方まで飲み明かしても、文句をいう人はいない。

 私は自由、坂下桜子はそう思う。

 会社から帰宅したばかりの部屋は冷たかった。エアコンをつけ、コートを着たまま、ドレッサーの前に座る。鏡には少し化粧がはげかかった顔が映った。顔色はくすみ、目の下のクマは朝よりも濃くなっている。桜子は、バッグからポーチを取り出し、化粧直しを始めた。午後十時。これから誰と会うわけでもないのに。

 コートを脱ぎ、バッグからiPodを取り出し、ドレッサーの横のスピーカーに差し込む。昔流行ったダンス・ナンバーが心地よく耳を刺激する。テレビの音は消したまま、ニュース番組にチャンネルを合わせた。スピーカーからは、マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」が流れている。鏡に映った顔は、濃い化粧でさっきより老けて見えた。

 曲が終わるまで鏡の中の自分をながめてから、桜子はクレンジング・オイルのボトルに手を伸ばした。人差し指と中指と薬指を、ゆっくりと皮膚の上で滑らせる。ファンデーションやアイシャドウがオイルに溶けていくと、心の中に澱んでいるものも一緒にとれる気がした。

 洗顔が終わるとシートパックを顔にのせ、加湿器の水を補給する。棚からウィスキーのボトルとグラスを取り出し、ナッツの缶を開けた。ウィスキーは一番好きなアイラ島のボウモアだ。

 ボトルから琥珀色の液体をグラスに注ぐと、煙のような香ばしさと、それにからみ合った磯の香りがわき上がる。アイラ島のウィスキー特有の匂いだった。四十になって、ウィスキーの味わいを甘く感じるようになった。苦味やまろみや渋さの奥に、ほんの一滴の甘さがある。それを捜しながら酔いを重ねていくのが桜子は好きだ。グラスはたいした装飾もない、厚手の無愛想なもの。手にした時の重さがちょうど良い。

 つけっぱなしになっていたテレビ画面は、スーツ姿の男たちが深々と頭を下げる映像に切り替わった。ハンバーガーチェーンによる賞味期限の偽装だった。桜子は、あわてて音楽を消し、テレビの音量をあげた。

 桜子は外食産業の会社に勤めている。新卒で入社して、もうすぐ十八年目になる。

 所属はイタリアン・レストランの事業部で、担当しているのは、パスタの種類の多さが売りのカジュアルなチェーン店だ。関東圏に九店舗ほど展開している。メニューの開発から価格決定、店員の採用まで桜子の仕事は多岐にわたった。

 この春、汐留に新しい店舗がオープンする。場所柄、若いカップルや家族連れではなく、周辺で働くビジネスマンやOLがターゲットだ。ネットで新作メニューのレシピを募り、採用された人には食事券五万円分をプレゼントする、という企画を立ち上げた。二百通近い応募はあったけど、アイデア優先の組み合わせが目立つ。料理人の中には一般消費者のレシピをメニューに加えることに抵抗を持つ者もいた。それは表向きの理由で、女の桜子に指示されるのが煙たいだけかもしれない。

 今日は試作段階のパスタの試食があった。十四種類のパスタのおいしいともまずいともいい難い奇妙な味は、まだ舌に残っている。桜子は、それを洗い流すようにボウモアの水割りを飲み干した。

 夜がゆっくりと溶けていった。


 出社して最初にするのは、前日の売り上げに目を通すことだ。金額だけではなく、店舗ごとにどんなメニューが出ているのかを頭に叩き込む。季節はもちろん、地域や時間帯で出て行くメニューが違う。その中から「最大公約数」を探すのも、桜子の大切な仕事だ。昨年末から、なぜか、トッピングに生のパクチーをたくさん載せたヴェトナム風パスタが伸びていた。目先が変わるエスニックな印象がうけているらしい。昨日の試作メニューの資料から、メキシコ料理にヒントを得たという「チョコレートソースのパスタ」のレシピを取り出した。

 窓を背にした大きな机は上司の山形部長の席だった。このレシピに彼はどんな反応を示すだろうか。

 営業部からきた山形部長は、イタリア料理には関心も知識もない。頭にあるのは出世だけで、役員の顔色ばかりうかがっている。部長代理という肩書きの桜子が現場を仕切っていた。山形部長が役員にお世辞をいう場面に出くわすと、男ってなんて不自由なんだろうと思う。彼らは名刺の肩書きに自分を見出そうとする。桜子は仕事そのものが好きだった。大勢の誰かに必要とされる充実感、私が物事を動かしているという手応え、やり終えた時の達成感、仕事はいろいろなものを与えてくれる。

 PCの画面を見ながら考え込んでいると、沢口百合香が緊張した面持ちで山形部長の前にたった。

「あのう部長、ちょっとお話が」

「ああ。じゃあ、お茶でも飲みにいくか」

 百合香が婚約したことは、なんとなく察しがついた。

 仕事の愚痴や相談は真っ先に桜子にしてくるけれど、こういう報告はやっぱり部長の肩書きが優先されるのか。

 会社の仕事をこなしながら、栄養士の免許をとった百合香は、有能な部下だ。栄養士の免許を取り終えると、フラメンコ教室に通い始め、そこのスペイン人教師と恋に落ちた。来月の誕生日で三十三歳の百合香より、彼は七歳年下だという。まだ日本語も片言なんですよ、と百合香が照れながらいった。百合香が一家の大黒柱になるのだろう。桜子は、そろそろ百合香をメニュー開発の責任者にしたいと思っていた。

 その日のランチは、百合香を誘ってデスクを離れた。

「婚約、おめでとう」

「ありがとうございます。本当は、部長より先に坂下さんに報告しなくちゃいけなかったんですけど……」

「気にしないで。そういうものでしょ、会社って」

 ビルの地下にある鮨屋に入った。お祝いに特上の握りを奮発した。百合香のプライベートに強い興味があったわけではないが、儀礼的にプロポーズの言葉をたずね、嫌みにならない程度にうらやましいふりをした。百合香は必要最低限のことを答えた。結婚「できた」女と「できない」女同士の会話が、盛り上がるはずもない。相手が男の社員なら、もっと気が楽なのに。百合香も同じように感じているらしく、言葉は途切れがちだった。

 桜子が支払いを済ませると、百合香は丁寧にお礼をいった。その丁寧さは、なるべく立ち入られないようにという防御にも思えた。鮨屋を出て、一階にあるコーヒースタンドに寄った。

「沢口さんさあ、昨日の試食メニューどう思う?」

「まだまだパスタの可能性って大きいことを実感しました。やっぱり、日本人に合うんだなって。正直いって、応募が百を越すなんてびっくりしました。応募が少なかったら、サクラの用意もしなきゃ、と思ってましたから」

 企画が失敗するかもしれないと心配されていたとはショックだったが、それは顔に出さず、にこやかに桜子がうなずくと、百合香は続けた。

企画が失敗するかもしれないと心配されていたとはショックだったが、それは顔に出さず、にこやかに桜子がうなずくと、百合香は続けた。

「私が一番気になってるのは、チョコレートソースを使ったものですね。改良は必要ですが、メニューに加わった時のインパクトは大きいんじゃないでしょうか」

「でしょう! やっぱり!」

 思わず身を乗り出した。メニュー開発の話題になると、百合香も饒舌になる。結婚後も、今以上に仕事をこなしてくれそうだ。

「よし、すぐにもう一回試作やらせてみよう。あとは、メニューのネーミングよね。あ、ねえ、その前に青山にあるメキシカンに、研究しに行こうと思ってるの。来週辺り、空いてる夜ない?」

「はあ……。後でスケジュール確認してみますけど……」

「よろしくね」

 コーヒーを一口飲んでから、桜子はまっすぐに百合香を見た。

「汐留オープン後は、沢口さんにメニュー開発の責任者になってもらうつもりだから。家庭との両立は大変だろうけど、店舗と直接やりとりしないでいいから今よりも残業は減るはずよ」

 百合香は黙ったまま、視線を落とした。

「何かあったら、私にいってね。部長にいいづらいこととかさ」

「いえ、あのう……」

「ん?」

「会社は……、その……、退社させていただきます」

 今度は桜子が黙る番だった。

「汐留のオープンまではなんとか頑張るつもりだったんですけど、部長が来月末でかまわないって。辞めるならさっさと辞めてくれた方がやりやすいっていわれました」

「そんな……」

 現場の状況をまったく把握していないから、そんなことがいえるのだ。百合香は、すみません、と小さく頭を下げた。

「立ち入ったこと聞くようだけど……、辞めてどうするの?」

「とりあえず、彼の里帰りも兼ねてスペインに行くつもりです。ずっと働きっぱなしだったから、少しのんびりしようかと思いまして」

「そうなんだ。沢口さんは仕事できるから、ちょっともったいない気もするけど、まあ仕事ばかりが人生じゃないし」

「ですよね。私、こうなったら、早く子供が欲しいんです。もう若くないし」

 いったとたん、百合香ははっとした顔になった。表情にははっきりと哀れみがみてとれた。


(次回に続く。次回「死ぬ気で仕事をするなら、結婚とか妊娠で気を散らすな」は8/21公開予定)

妊娠、出産、育児、結婚、そして仕事。女性が自分で選択できる時代が、きっとくる。

この連載について

産む、産まない、産めない

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

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mori_kananan |甘糟りり子 @ririkong |産む、産まない、産めない 自分が、出産を経たからこそ、気になる… https://t.co/cDMkcIh0ai 3ヶ月前 replyretweetfavorite

megamurara 引き込まれました。 3ヶ月前 replyretweetfavorite