消費と摩耗
「この人、何を言っているんだかわからない」という状況を作り、なおかつそれを維持するのって大変なことだ。今は、どこで何をやっても、すぐに「ああ、そっちね」と、近くor遠くから見渡している誰かに居場所を定められてしまう。流行っている枠組みがあれば、それに入れ込むことが可能かを検討されてしまう。いや、そんなつもりじゃありません、と主張しても、「まぁまぁ」くらいのなだめ方で参加を余儀なくされる。芸能界はとりわけ、「流行りの枠組みに体を合わせられるか選手権」の色合いが強く、体を合わせては消費、体を合わせては消費、という摩耗によって運搬されている。
いつもの感じをこなす
よくわからないことを言う人、って、その人のために費やす時間が必要になる。これはテレビの世界でも日常生活でも一緒だ。「で、結局、何が言いたいの?」という問いに答えないまま、時間をかけてグダグダしゃべった事実に満足しているような人が、個人的には大好きである。「企画書は1行」とか「1分で話せ」といったタイトルの本が売れれば売れるほど、企画書を長くしてやろうと思うし、90分話して結論を先送りしてやろうと思う。「相手のために簡略化して把握してもらう」を繰り返していると、相手が「では、今度は、これに合わせてきてください」と要請しやすくなる。それに対して、「嫌です」と答えるのは、今、どの世界でもタフなことだ。
このところ、テレビに出ている大泉洋を見ると、とにかく物分かりがいい。大きな映画やドラマの番宣として出ることが多く、時間が限られているからなのか、ボケてみたり、ボケから真顔に戻ってみたり、もう一度ボケたりする時間が、それぞれ短い。大泉洋の魅力を誰より大泉洋自身が理解しており、その計算し尽くされた様子に違和感が残る。その場でテキトーなことを言い連ねる大泉洋ではなく、いつもの感じを的確にこなす大泉洋ばかりを見る。『水曜どうでしょう』の頃と比べるのはさすがによくないのはわかる。でも、比べてしまう。それは、大御所になったロックバンドが初期の荒々しい楽曲をプレイしているのを見て、「そうやって、正しく荒くれるのって、なんか違うんだよね」と評論家を気取りたくなるのに似ている。