「痛み」は共有できるか
前回は「モノ」の大切さについてお話ししました。物的証拠や物理的な痕跡こそが、解釈の暴走を防ぐ役割を果たす。それがなければ意見の数だけ解釈が生まれ、折り合いをつけることは非常に難しくなってしまう──という話でした。
今回はこれをもう少し掘り下げつつ、この連載の核心である、検索ワードの問題に踏み込んでいきたいと思います。
二〇世紀以降の哲学は、人間社会は記号や言語で作られているということを強調してきました。僕もそのなかで教育を受けてきたわけですが、結論から言うと、僕は、人間社会は、あらためて原初的な「物理的実在」の力を評価しなおすべきだと考えています。それは実践的な意味においてです。
たとえば児童虐待の事件が起きたとする。そこで証拠として、被害児童の痣を見るのと、それを再現したイラストを見るのとでは、人間はまったく違う印象を受ける。イラストでいかに精緻に再現したとしても、それは実物のインパクトには敵わない。だから、残酷かもしれないけれど、被害を立証し、それを見たひとの感情を動かすためには、実際の痣を見せるのがもっとも効果的だったりする。
これが人間というもので、制度はあらかじめその性格を考慮して設計するべきです。
僕がルソーに惹かれたのは、彼がそのような実践的な観点をもっているからでした。『一般意志2・0』でも紹介したように、ルソーの社会に対する見方は、ホッブズやロックといった社会契約説の先行者とはまったく異なっている。
詳しくは同書の第七章をご覧いただきたいのですが、ホッブズやロックは基本的に、人間は自然状態では争いを止められないのであり、だからそれぞれの権利を制限し社会を作るのが合理的だと主張しています。つまりは、人間は頭がいいので社会を作ると言っている。
それに対して、ルソーは本来は孤立してばらばらに生きるべきなのに、人間は他人の苦しみを前にすると「憐れみ」を抱いてしまうので群れを作ってしまうと考える。つまり社会の根拠は合理的な判断にではなく、動物的な感情にあると述べているのですね。僕が「物理的実在」の力をふたたび考慮するべきだというのは、こういう「憐れみ」の力をもういちど考え直そうということでもあります。
この「憐れみ」というのは、人権とか正義とかいった理念とは関係のないものです。むしろとても反射的なもので、たとえば目の前で人が血を流していたら助けざるを得ないといったもの。そこには、解釈が入り込む余地がありません。
なにが人権か、なにが正義か、については無限の解釈論争がありうるけれど、反射的な「憐れみ」にはそれはありえない。だからそれは知的ではない。でもだからこそ無限の解釈の連鎖を止められる。
見えるものを大切にする
これはある意味で不幸なことでもある。
もう一度児童虐待を例にとってみましょう。ここに、外見上はまったく異変がなく、きれいな服を着た子どもがいるとする。その子が虐待を受けているのだと主張する。それを聞いてすぐに「助けなければ」と思うことができるか。それはとても難しい。その子は嘘をついているのかもしれない。なにか別の事情があるのかもしれない。もっと様子を見てみる必要がある。そう判断するのが自然です。
もちろんこれは虐待を見逃してもいいという意味ではありません。そうではなく、冷静な大人であればそのようにしか判断できない、というコミュニケーションの限界の話をしているのです。
けれど、その子の腕が折れていたらどうでしょう。多くのひとが、これはいますぐ手を打たなくてはならないと思うはずですし、そしてそれに異論も出ないでしょう。
ルソーが「憐れみ」という言葉で呼んだのは、この差異のことだと思います。言葉で虐待を訴える子と、身体に傷を負って虐待を訴える子に対する多くのひとの反応の違い──それは人間の限界であるけれど、同時に社会構築の基礎なのではないか。ルソーが言いたかったのはそういうことだと、僕は捉えています。
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