生きることを照らすために【第1回】

脳科学者・茂木健一郎さんと心理カウンセラー・長谷川博一さんの出会いから「生きづらさ」の正体を考える対話がスタート。話題の書籍『生きる──どんなにひどい世界でも』から、第1回と第2回を同時に公開します。
明るく能天気に見える茂木さんも、思春期から30歳くらいまでは「生きづらい」人間だったといいます。茂木さんが語るプロローグをお届けします。(長谷川さんが語る第2回はこちら

photo by 飯本貴子

プロローグ 生きることを照らすために(茂木健一郎)

「この世界は生きづらい」という人がいる。
この本を読んでいる人も生きづらいと感じているかもしれない。
生きづらいと感じている状態は苦しいけれど、
そういう時間を持つことは悪いことではないと思う。
かく言う私も、 かつて、迷ったり、生きづらさを感じたりすることがあった。

たとえそこにフォーカスしすぎてしまう時があったとしても、
誰もが、そこから自由になることができると信じている。

能天気な僕が 「生きづらさ」を感じたわけ

 僕は、子どもの頃、とても能天気な人間だった。今だってそうだ。だけど、思春期の頃あたりから30歳くらいまでは「生きづらい」人間でもあった。

高校生の時、友達にこう言われたことがある。

「お前ってさ、賢いはずなのにそう思えないんだよな。俺は今まで、賢いやつは性格が悪いと思っていたけど、お前は能天気すぎるから、賢く見えないんだよ。困ったなあ」

 そう言って笑う友達がなぜ困っていたのかはわからないが、人から見ればそれだけ能天気に見えていたということだろう。

 人から見れば、僕はちょっと変わった子だった。物心ついた頃から蝶々ばかり追いかけていたし、小学校では授業中にウロウロと立ち歩いていた。

 2年生の時には同じクラスにちょっと勉強ができない子がいて、その子と一緒によく一番後ろの席に座らされた。僕は後ろに座らされることを嫌だと思わなかった。むしろその子と一緒に消しゴムのような粘土のようなものをこねて遊ぶゆったりとした時間が好きだった。もちろん授業中のことだ。

 だけど、学校でも家でも、強制的に勉強させられたことはないし、何かを無理やりさせられたという記憶もない。それでも、なぜか成績は良かった。

 街を歩いていると、大人が子どもを叱っているのを目にすることがある。

「ダメでしょ、ちゃんとしなさい!」

「気をつけなさい!」

 そういう場面を見ると、不必要に子どもを押さえつけようとしているように感じる。押さえつけなければならないと思っているのかもしれない。

 僕の親は僕以上に能天気だったから、押さえつけられていると感じることは全くなかった。今振り返ると、自分の存在を無条件に肯定されて育ったのだと思う。僕にとってそれは当たり前だったし、大人になってからも、子ども時代というのは誰にとってもそういうものだと思っていた。

ずっと能天気に見えていた僕が、「生きづらさ」を感じ始めたのは中学生の頃のことだ。僕は学校の勉強がたまたまよくできた。友達は勉強ができない奴が多かった。僕と友達の関係は何も変わらないのに、学校の先生や世間は評価を変えるようになった。

 友達とどう接したらいいのかわからないというつらさがあった。一緒に遊んでいても、「お前はいいよな。成績いいからさ」「俺たちは偏差値低いから、行く高校に困るんだよ」と言うようになった。ついこの間まで一緒にワイワイやっていたのに。

 その頃から世の中の構造化が始まった。気の合う友達と、それまでと同じようには遊べなくなってしまった。大人からも友達からも、自分が「成績のいいヤツ」と分類され、一括りにされることが嫌だった。

 大学に進学すると、どうも僕は世の中の人たちとは違うらしいということに気がついた。それまではまだ天真爛漫に振る舞うことができていたけど、そうはいかないことが次々と出てきた。世の中に合わせるべきか、それとも自分のままでいいのかなどと考え始めた。そういうことを考え始めるとそれはそれで大変だ。僕の20代は、個性と社会をどう合わせていくかが大きなテーマだったと思う。その頃、僕はこんなふうに考えていた。

「これは仮の人生だ。本当に充実した人生は他にあるはずだ」

「僕の人生はまだ始まっていない!」

 ある時目が覚めたら、パーッと幕が開いて、「さあ、君の新しい本当の人生が始まるよ!」という日が来るんじゃないかと思っていた。つまり、自分の現状に不満を持っていた。

 でも、そんなふうに考えていたその時も、僕は毎日生きていた。

 その日その時を生きている以外に僕の人生はあるはずなんてなかった。

 そのことに気がついた時、また子ども時代に戻った気がした。はたから見れば、また能天気に戻っただけのことだ。だけど僕の中では少し違っている。それはこの「対話」の後に話そうと思う。

世界を どう認識するか

 実のところ僕は、日本だけが取り立てて生きづらいわけではないと思っている。「生きづらい」といえばマスコミは商売になるし、本だって売れる。でも、実際にいろんな国へ行っていろんな人と話して思うのは、日本で言われているようなことはほとんどどこの国でもあるということだ。逆に、外国にしかないと思われているものだってほとんど日本にもある。9割以上のことは、「国」ではなく、「人間」で説明できる。

 僕が20代の頃にも「生きづらさ」はあった。もう30年以上前だが、その頃と今とでは基本的な構造は大して変わってはいない。ハンス・ロスリングの『ファクトフルネス』という本にもあるように、実際には世界は良くなっているのに、「世界はどんどん悪くなっている」と思い込んでしまう人が多いだけのことだ。

 ただ一方で、自分が抱えている「生きづらい」という感情は、事実である。それ自体は否定せずに受け入れるところから、生きやすさへの道は始まる。自分がどういう感情を持っているかをありのままに、評価せずに、良し悪しを決めることなく受け入れることが大事だという気がしている。

 つまり、この本を読んでいる人が、今「生きづらい」と思っているとしたら、そう思っていることが良いとか悪いとかを考えるのではなく、ただ「そういう自分がいる」という事実を受け入れるところからスタートすることだと思う。

 今の僕は、「そんなに悪くないよね」と世界を捉えている。

 この世界は以前と比べて悪化して生きづらくなってきているのではない。最初からどうにもならない世界なのである。でも、その世界をどう捉えるかが鍵になる。

 脳は、柔軟にいろいろなことを解釈する力や可能性を秘めている。脳にはクリエイティビティ、創造性がある。自分の置かれた状況をポジティブに捉える力がある。感情と知性をもし分けるとするならば、知性によって感情が作られる側面があるということだ。

この本が、読者のみなさんにとって、生きることを隅々まであかあかと照らすマインドフルネスへの道になることを願う。

第2回も同時公開。第3回は7月16日(火)公開予定です。

脳と心で考える、生きづらさの正体

生きる──どんなにひどい世界でも

茂木 健一郎,長谷川 博一
主婦と生活社
2019-07-19

この連載について

生きる──どんなにひどい世界でも

茂木健一郎 /長谷川博一

「生きづらさ」の正体は何なのか? 現代社会の病理はどこにある? 脳科学者と臨床心理学者が出会ったとき、いのちが動きはじめ、世界の見え方が変わります──。7月19日発売の書籍を全文公開。

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コメント

mayumist1120 「この世界は以前と比べて悪化して生きづらくなってきているのではない。最初からどうにもならない世界なのである。」https://t.co/D5wH1qqYvE 約1ヶ月前 replyretweetfavorite

bumi_y 「自分が抱えている「生きづらい」という感情は、事実である。それ自体は否定せずに受け入れるところから、生きやすさへの道は始まる。」→ 約1ヶ月前 replyretweetfavorite