十月二十九日の朝が来た。もはや鮫島にできることはないので、昨夜はぐっすりと眠った。だが五十嵐の心中を思うと、深い眠りに就いていたことさえ後ろめたい気持ちになる。
──ここまで来たら、なるようにしかならない。
ベッドから起き上がると、鮫島は熱いシャワーを浴びた。
──五十嵐さんは帝国軍人としての誇りを持っていた。それは今も変わらない。誇りを捨てるくらいなら死んだほうがましだろう。薩摩隼人であり帝国軍人だった五十嵐さんにとって、それだけが最後の寄る辺なのだ。それを奪うことは誰にもできない。
鮫島は、どのような判決が出ようと淡々と受け入れる五十嵐の姿を思い描いた。
──戦犯裁判に上告はない。だとしたら弁護人も、それを堂々と受け入れるしかない。
頭から湯を浴びながら突然、鮫島は父のことを思い出した。
──父は弱い人間だった。しかし最後は男として生きようとした。
父は「医者は傷病兵のためにいる」と言い張り、病院に行かなかった。
手術を受けなければ余命いくばくもないことを鮫島が告げても、父は行かなかっただろう。
その理由を鮫島はずっと考えてきた。だが今なら分かる。父は自分の弱さを自覚していた。そして五十嵐のような軍人に対して、後ろめたい気持ちを持って生きてきた。それは戦場に出ない民間人であることの後ろめたさ以上に、男としての憧憬に近いものだったのだろう。
そして父は、各地の戦線から傷病兵が内地に送られてくるのを目の当たりにし、「きっと日本は敗れる」と思ったはずだ。その時、父にできることは、戦場で戦ってきた傷病兵のために自分を犠牲にすることだったのだ。
──自分が瘦せ我慢し、医師に貴重な時間を使わせないことが、父さんの戦いだったんだ。
それによって一人の兵士の命が救われるかもしれないと、父は思っていたに違いない。それで死を覚悟し、痛みや苦しみに耐えることで、戦場で散っていった同胞への贖罪としたのだ。
──父さん、あんたは弱い人間だった。だが十分に戦った。五十嵐さんたちと同じ戦前の男として。
鮫島は初めて父の気持ちを理解できた。
──玉音放送を聞いた時、父は日本が戦争に負けたことに泣いたのではない。あれは、父たちが大切にしてきた「日本人の魂」が失われていくことに対しての涙だったのだ。
鮫島は五十嵐を救うことで、それを守ろうとした。だが五十嵐の生命は失われても、その精神を受け継いでいけばいいのだと思うようになった。
──父さん、日本は変わっていくだろう。しかし戦勝国がどれだけ圧力を掛けてこようが、どれだけ彼らの価値観を押し付けてこようが、われわれが日本人であることに変わりはない。父さんや五十嵐さんたちが大切にしてきた「日本人の魂」は、ずっと受け継がれていく。
判決の日のために、新たにテーラーで仕立てたシャツを着た鮫島は、購入したばかりの貝素材のカフスボタンを留めて法廷へと向かった。
法廷は常にない緊張に包まれていた。このところ空席が目立ち始めていた傍聴席も、今日は満席どころか立錐の余地もない。本国から派遣されてきた記者たちが、判決をいち早く伝えようというのだろう。
──それだけ、この裁判は英国、いや世界に注目されているのだ。
午前十時、鮫島が着席すると、五十嵐と乾が連れてこられた。二人は紺色とグレーのジャケットを着て、折り目の付いたズボンをはかされている。五十嵐は相変わらず泰然としているが、乾は明らかに緊張している。
やがて軍服姿の判事たちが現れた。ざわついていた傍聴席が、水を打ったように静まり返る。
裁判長は開廷を告げると判決文を読み始めた。
「五十嵐被告から乾被告への命令伝達は明らかであり、五十嵐被告もそれを認めています。しかしながら、軍令部から五十嵐被告にあったという命令の伝達については、証言・証拠共に不十分であり、それがあったと立証できませんでした」
裁判長が鮫島に視線を据える。
「弁護人からは証人の申請があり、それを受理した東南アジア司令部戦争犯罪法律部では、証人を日本からこちらへ連れてくることを認めました。しかしながら当法廷では、事前に提出された書類から、その証人が証言者たる資格を満たしていないと判断し、証人として認めませんでした。いかに証人が軍令部の中枢にあっても、物的証拠がなければ証人として認められないのは、万国共通の認識です」
──それは詭弁にすぎない。
そこまで杓子定規な裁判など、どこの国にもない。
「続いて、抗命行為並びに助命活動に関してです。東南アジア司令部戦争犯罪法律部では、上官の命令であるという申し立てについては、命令実行者が、その行為が戦争犯罪ないしは違法行為であることを認識していたのかどうか、自由裁量の余地がどれだけあったのか、または命令に異議申し立てを行ったのかどうかを重視します。軍隊である以上、上官の命令は絶対です。しかし個々の事案には、それぞれ固有の事情があります。それを探り出すのが裁判なのです」
──この裁判の公正さを訴えるために、まず前提を思い出させたのだな。
確かに、これらの基準には公正さがある。法に携わる者として納得はできる。だが戦争中の証拠など焼き捨てられてしまっているし、証言できる人々の多くは、すでにこの世にいない。本来なら戦争という特異な状況をもっと酌量しないと、戦犯裁判など成立しないのだ。
「諸事情を勘案してもなお、二人の被告共に、今回の件が違法であるという認識は明らかだったと思われます。また人命最優先という観点からすれば、自由裁量の余地は十分にあったはずです。ただし命令に対する異議申し立てについては、乾被告の場合は多くの証言や記録から明らかにされていますが、五十嵐被告の場合は明らかではありません」
その一点において、五十嵐と乾には大きな隔たりがあった。しかし五十嵐本人の陳述によれば、五十嵐も助命に奔走したことは間違いなく、不幸にもそれを知る者が戦死してしまっているだけなのだ。
鮫島は五十嵐の不運を嘆くしかなかった。
裁判長が厳かに言う。
「イギリスの軍事法廷では、判決を聞く前に刑罰の軽減を請願することが許されています。まだ言っておくことがあれば、手短に述べて下さい。まずは乾被告──」
乾が「待ってました」とばかりに立ち上がる。
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