翌日、鮫島が公判資料の片付けをしていると、オーダリーがやってきて、「至急、戦犯部に来るようにとのことです」と告げてきた。
急いでペニンシュラ・ホテルにある戦犯部起訴係に出頭すると、例の大佐が不機嫌そうに書類に目を通していた。
──河合は来ていない。俺にだけ何の用事だ。
「Sit down, there」
鮫島が言われるままに腰掛けると、大佐は顔を上げずに聞いてきた。
「まだ、ここにいるそうだな」
「はい。帰国命令は出ましたが、われわれの乗る船が出るのは一週間ほど先です」
「そうか。では、その船をキャンセルしろ」
「なぜですか。まさか私も逮捕されるのですか」
「ははは、面白いことを言うな。さすがアンディを困らせた男だ」
確かに鮫島は裁判長を困らせた。その話が法廷外にも広まっているのだ。
「逮捕されないのなら、なぜ滞在を延期せねばならないのですか」
「上からのお達しだ。五十嵐死刑囚のたっての希望で、君に処刑に立ち会ってほしいそうだ。死刑囚のくせに厚かましい願いだが、上は承認した。もし嫌なら嫌と言ってくれれば──」
「お受けします」
鮫島は言下に答えた。
「それならいい。五十嵐の処刑がいつになるかは未定だが、おそらくクリスマス前に執行される。つまり君は日本で正月を迎えられるだろう」
「私は迎えられても、五十嵐さんは迎えられません」
「何だと──」
その一言で、大佐の顔が一変した。
「彼に殺された人々は、家族とクリスマスを過ごすことができなかったんだぞ。そのことを忘れるな!」
これ以上、何か言っても意味がないと思った鮫島は、何も言わず出ていこうとした。
だが鮫島の背に、大佐の声が襲ってきた。
「死刑を見るのは辛いぞ。怖気づいて逃げ出すなよ、ジャップ!」
大佐の言葉の最後は、鮫島がドアを閉める音にかき消された。
起訴係からの帰途、五十嵐に「承知した」旨を伝えるべく、スタンレー・ジェイルに電話をして面談を申し入れたが、簡単に却下された。ただし伝言は取り次いでくれるという。
戦犯は刑が確定した時点で、極めて厳しい扱いを受ける。死刑が確定した場合はなおさらだ。外部とのコンタクトも極度に制限される。その理由は外部と接触することで、生に対する未練が生じ、それまで徐々に醸成されてきた死への覚悟が弱まってしまうからだという。
──日本の軍人をイギリス本国の死刑囚と一緒にするな。
鮫島は口惜しかったが、もう鮫島が何を言おうと、裁判所も刑務所も聞き入れてくれるはずがなかった。五十嵐と鮫島の被告と弁護人という関係は、判決が出た時点で終わっており、今の鮫島は五十嵐の元弁護人でしかないからだ。つまり肉親でもない鮫島は、イギリス政府の所轄機関に対し、何一つ願い出られる立場にはないのだ。
それでも五十嵐の希望を容れたということは、刑務所側が特別の配慮をしてくれていることを意味する。鮫島は、それだけでも感謝せねばならないと思った。
翌日の夕方、今度はナデラがやってきた。
鮫島は裁判所の庭の散歩に誘った。
鮫島たちが来た頃に比べると、裁判所内は閑散としてきていた。かつては多くいたイギリス兵も明らかに減ってきており、日本人に対し、あからさまな敵意を向けることもなくなっていた。
「鮫島さん、お別れを言う時が来ました」
ナデラが唐突に切り出す。
「おそらく、そういう話だと思っていたよ」
鮫島はとくに驚くこともなかった。
「せっかく知り合えたのに残念です」
「私も残念だ。それで、これからどうする」
「インドに戻り、法の整備に取り組むことになりました」
「これまで学んだことを母国のために生かせるんだな」
「はい。今年の八月、インドが独立したのはご存じの通りですが、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が激しく、多くの人々が亡くなっています。その結果、パキスタンが分離独立するという悲劇も生まれました」
「そうか。君の行く道も平坦ではないんだな」
「はい。それが私の使命だと心得ています。まだまだインドは発展途上の国です。これまで法律らしい法律もなかったため、人々は宗教と慣習に縛られていました。こうしたことを急に変えるのは難しい。しかし法律がなければ平和も平等もありません。私はイギリス人たちから学んだ法律の知識を駆使して、インドを平和で平等な国にしたいのです」
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