裁決の時|4−2

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 開廷が告げられるや、傍聴人も含めた全員が、先ほどと同じように起立して三人の判事を迎えた。

 着席した裁判長は法廷を見回した後、おもむろに口を開いた。

「鮫島弁護人の要請に基づき、判事二人と一時間にわたり協議した結果、鮫島弁護人の要請する証人は不適格と見なし、証人として召喚することを却下します」

 ──Disqualify、か。

 不適格という言葉が胸に突き刺さる。半ば予期していた結果ではあるが、いざそれが現実になると、いよいよ追い込まれたという思いが実感として迫ってくる。

 ちらりと五十嵐を見たが、瞑目して微動だにしない。

 鮫島が無言でいるのを見た裁判長は、不審に思ったらしい。

「弁護人はよろしいですね」

 ──来たな。

 鮫島は大きく息を吸うと答えた。

「要請をご検討いただき、深く感謝いたします」

 裁判長が軽くうなずく。そこには面目を保てたことへの安堵が漂っている。

「では弁護人、ほかに証人がいないのなら判決の協議に入ります」

「お待ち下さい。まだ証人はいます」

 腰を浮かせ掛けた裁判長が、意外な顔をして再び座る。

「事前の報告書には、白木氏を除き、新たに日本国内から召喚した証人はいないはずですが」

「いえ、喚問したい証人は、この法廷内にいます」

 その発言に傍聴席がざわつく。

「鮫島弁護人は、五十嵐被告の無罪を証明できる証人が当法廷内にいると言うのですね」

「無罪を証明できるとは申しません。しかし証言によっては、情状酌量の余地が出てくると思われます」

 ──五十嵐さん、申し訳ありません。これしか方法はないのです。

 五十嵐は端然と座り、一切の感情を面に表さない。

「分かりました。弁護人は、その者の名と理由を述べて下さい」

「はい」と言って鮫島は法廷内を見回した後、弁論を開始した。

「皆さん、この世に罪のない人間などいるのでしょうか。どのような聖人であれ、生きている限り罪を犯しています。五十嵐被告の場合、命令を遵守せねばならない立場にあったため、捕虜たちを救う手立てを講じなかった。人としてよりも軍人であるという道を選んだことが、彼の罪なのです」

 傍聴席が静まり返る。弁論が予想もつかない方向に進み始めたからだ。

「鮫島弁護人、簡潔に述べて下さい」

「承知しました。五十嵐被告の罪は大日本帝国の罪でもあります」

「弁護人──」

「分かっています。罪を国家体制に転嫁するつもりはありません。ただ大日本帝国という存在が、その下で生きてきた多くの人々の罪を生んだことも確かなのです」

「それは承知しています。だからといって──」

 裁判長の言葉を手で制し、鮫島は続けた。

「大日本帝国軍人であるというくびから逃れられなかった点で、五十嵐被告は罪に問われています。しかし、その頸木がなかったら彼はどのような人間なのか。最後にその一点について証人に問い質したいのです」

「弁護人の気持ちは分かりますが、藤堂氏をはじめとしたかつての部下を呼び出したところで、五十嵐被告の人柄を称賛することの繰り返しになります」

「その通りです。ですから私はそうした人を求めません」

「では誰を──」

「乾被告です」

 法廷内がざわつく。これまで敵対関係にあった乾を証言台に立たせたところで、何ら五十嵐に有利な発言など得られないと思っているのだ。

「裁判長!」と言って河合が発言を求める。

「鮫島弁護人の要請は受け入れ難いことです。乾被告を証人とする目的には納得できません」

 しばしの間、河合を見つめて何かを考えていた裁判長が、おもむろに言った。

「Dismiss」

「なぜですか」

「乾被告から五十嵐被告の人間性を語らせるのは、日本の軍人というものの根本的な理解につながるからです」

「それは当法廷の目的とは異なります」

「いいえ。大日本帝国の軍人精神を理解することは、当事案の本質部分を理解することにつながります」

 そこまで言われては、河合も言い返せない。

「エスコート!」

 裁判長の合図によって乾が立たされた。乾は戸惑ったように周囲を見回している。

「裁判長、ありがとうございます」

「礼は要りません。弁護人として当然の権利を行使し、それが理に適っていたため、当法廷は認めただけです」

 いったん裁判長を怒らせてから妥協したことで、その感情が好転したことは明らかだった。

 そこには、頑なに白木を証言台に立たせなかったという後ろめたさもあるのだろう。

 乾が証言台に連れてこられた。予想もしなかった事態に、動揺しているのが見て取れる。

 乾はキリスト教徒なので、証言台に立たされた時は聖書に片手を置きながら宣誓する。

「噓偽りないことを申し述べると誓います」

 乾が俯き加減で言う。

 次の瞬間、「乾被告」と鮫島が呼び掛けると、乾はびくんとした。

「それでは質問を開始します」

 裁判長に軽く頭を下げると、鮫島は最初の質問をした。

「乾被告はクリスチャンですね」

「はい。十四歳の時に洗礼を受けて以来、敬虔なキリスト教徒です」

 この法廷で、乾は一貫してクリスチャンであることを強調してきた。鮫島は最初の質問をその確認にすることで、乾の気持ちを少しでも解きほぐそうとした。

「では、キリスト教の信条に反しないように生きてきたわけですね」

 乾の顔に不安の色が浮かぶ。先ほどの「罪のない人間などいない」という鮫島の言葉を覚えているのだ。

「そのつもりですが」

「全く罪のない生き方をしてきたと言い切れますか」

 乾が沈黙で答える。

「Objection!」と言って河合が立ち上がる。

「先ほど鮫島弁護人は、『どのような聖人であれ、生きている限り罪を犯しています』と言ったはずです。その発言と矛盾するようなことを、乾被告に問うています」

「裁判長」と鮫島が発言する。

「私は乾被告の過去をほじくり返し、その非をなじるつもりはありません」

「分かりました。続けなさい」

 河合の焦りが手に取るように分かる。一方のバレットは、緊張の面持ちで乾を注視している。

「乾被告、いかがですか」

「私も若い頃は教えに反することもしました。しかし──」

「答えは端的にお願いします」

「私も些細なことでは罪を犯しましたが、神にざんするほどのことはしていません」

「それは、どのような罪ですか」

 しばし考えた末、乾が答える。

「私は目がいいので、優秀な奴の答案を盗み見しました」

 傍聴席から失笑が漏れる。

 ──よし、これならいける。

 乾が何と答えるか一抹の不安はあったが、これで鮫島の眼前に論理の展開が見えてきた。

「分かりました。罪を犯したことは誰にでもあるはずです。それをあげつらっていては、きりがありません。ただ乾さんは、その時、学生で成績をよくしたかった」

「その通りです。学科には得意不得意がありましたから」

 乾は典型的な理工系人間だ。しかも自分の興味のない学問については、普通の人以上にやる気がなかったようだ。それが兵学校の成績は平凡だが、専門分野では顕著な業績を挙げていることにつながっていた。

「学生というお立場でなかったら、他人の答案を見ることもなかったはずですね」

「そうなります」

「人には立場があります。立場なくして過ちを犯すことはありません」

「Objection!」と言ってバレットが立ち上がる。

「鮫島弁護人は論点をすり替えようとしています。軍令部から命令されたという事実を証明できない限り、立場云々は意味を成しません」

「検事の発言を支持します」

 裁判長が厳然とした面持ちで言う。

「仰せの通りです。ただ一般論として、人は立場によって物事を判断し、自らの行動を決めていく傾向があるということを言いたかったのです」

「分かりました。続けなさい」

「ありがとうございます。では、そうした立場を取り去ったら、五十嵐被告はいかなる人物だったのか、お答えいただけますか」

 乾は「えっ」という顔をしたが、すぐに態勢を立て直した。

「五十嵐被告とはインド洋作戦でご一緒した際にお会いしたのが初めてだったので、その人柄などは存じ上げていません」

「そうでしたね。でもあなたのことだ。きっと事前に調べていたでしょう」

「どういうことですか」

「あなたは周到な方です。上官と良好な人間関係を築くことが、高評価につながることを知っていたはずです」

 乾が口をつぐむ。それは図星だと言っているに等しいことだった。

「あなたは同期や親しい人に、五十嵐被告の評判を尋ねたはずです。それはどのような話でしたか」

「それは──、五十嵐被告は部下に厳格な方だと聞きました」

 ──やはり、そう来たな。

 鮫島とナデラは、乾は防衛本能から、当初は五十嵐に有利なことを言わないと思っていた。

「ほかには何かありませんでしたか」

「謹厳実直な方だと聞きました」

「謹厳実直というのは職務に忠実で正直という意味ですか」

「私はそう聞いただけで、そう言った者の真意までは測りかねます」

「分かりました。では否定的なものは、それくらいですか」

「否定的なもの──」

 乾が首をかしげる。

「そうです。部下に厳格で職務に忠実という五十嵐被告の否定的な実像が見えてきました」

 覚悟していた「Objection!」の言葉は、バレットからも河合からも聞こえてこない。

 ──戸惑っているのだ。

 鮫島の狙いが分からず、「Objection!」を連発することを避けているに違いない。

「では、よい評判は聞かなかったのですか」

「よい評判──」

「五十嵐被告に肯定的な評価を下している方は、いらっしゃいませんでしたか」

 乾の顔が曇る。どう答えていいか分からないのだ。

 しばらくの沈黙の後、鮫島が問う。

「肯定的な評価は聞かなかったのですね」

 傍聴席がざわつく。鮫島の問いは、乾でなく五十嵐を追い込んでいるとしか思えないからだ。

 鮫島が落胆をあらわにしつつ言う。

「分かりました。五十嵐被告のよい評判は聞かなかったというのですね。裁判長、以上です」

 鮫島が着席しようとしたその時だった。

「待って下さい」

 乾が小さな声で言う。

「そんなことはありません。五十嵐中将、いや五十嵐被告については──」

 乾が口ごもる。

 裁判長がため息をつきつつ促す。

「証人は、証言台に上ったからには真実を証言せねばなりません」

「は、はい」

 乾は大きく息を吸うと言った。

「五十嵐被告は、部下思いの理想的な指揮官だと聞きました」

 鮫島がすかさず問う。

「五十嵐被告に対して、複数の方がそのようなことを言っていましたか」

「は、はい。『五十嵐被告の下に就くのは、士官としていい勉強になる』と言っていた者もいました」

「ほかには」

「清廉潔白で曲がったことは大嫌い。理想的な帝国軍人だと」

「それだけですか」

「いえ、上に対しても言うべきことは言う。下に対しては慈悲深く──」

 乾が証言台に片手をつく。

「これ以上、優れた指揮官はいないと言っている者もいました。後になってから聞いた話ですが、レイテ島のオルモックへの輸送作戦の折、駆逐艦『風波』に乗っていた友人がいました。『風波』沈没後、彼は何かに摑まり漂流していましたが、助けは来ないと覚悟しました。ところがそこに『釧路』が現れ、彼らを救っていったそうです。そのために『釧路』は大破沈没してしまうのですが、後に五十嵐被告に会った時、自分たちのために船が沈められたことを詫びたところ──」

 乾の声が震える。

「五十嵐被告は、『たかが船じゃないか。お前ら一人の命ほどの価値もない』と言ったそうです」

 傍聴席がどよめく。日本の将官は兵たちの命を毛ほども尊重しないというのが、彼らの通念だからだ。

「つまり五十嵐被告は、旧帝国海軍内でも部下思いの人格者として認知されていたわけですね」

「その通りです」

「それほどの方が、イギリス軍憎しの感情から自ら命令を捏造したと、あなたはお思いですか」

 乾の顔色が変わる。

「私は──」

 乾が言葉に詰まる。だが河合はじっと前を見据えて何も言わない。勝負を乾本人に預けているのだ。一方の五十嵐は、一切の表情を変えずに瞑目している。

「私は捏造したとは思いません」

 その一言で法廷内は騒然となった。

「Silence!」

 裁判長の叩くガベルの音が響く。

「それではあなたは、あの命令は軍令部から出ていたと思いますか」

「はい。そうでなければ五十嵐被告が、あれほど命令の遵守を訴えるはずがありません」

 乾が胸を張る。

 ──開き直ったのだ。

 これまで保身しか考えてこなかった乾が、クリスチャンとしての自覚を取り戻し、真実だけを述べることで、神を味方に付けていると信じるようになったのだ。

 ──ナデラの言う通りになった。

 鮫島はナデラの賢さに感服した。

「五十嵐被告と接した時間は少ないものの、私も五十嵐被告は立派な人物だと思います」

 乾が堂々とした態度で言った。

「ありがとうございます。以上ですので、お掛け下さい」

 乾が安堵したように証言台の椅子に腰を下ろす。

「裁判長、今お聞きになったように、五十嵐被告は人格者で清廉潔白な方です。いかに証拠がなかろうとも、それだけの人物が命令を捏造して残虐行為を行うでしょうか」

 裁判長が鮫島を見据える。

 二人の視線が真っ向からぶつかった。

 ──ここで引いたら日本は二等国のままだ。俺たちは戦争とは別の手段で、もう一度、日本を一等国に引き上げて見せる!

 沈黙が重く垂れ込める。これまでざわつくことの多かった傍聴席も、黙って裁判長の次の言葉を待っている。

「鮫島弁護人、証人への尋問は、これで終わりですか」

「はい」

「では、本日はこれで閉廷とします。明日は──」

 裁判長の声に緊張感が漂う。

「判決の申し渡しとなります。以上!」

 判事たちが立ち上がると、傍聴席の人々も何事か話し合いながら去っていく。

 ──これでよかったのか。俺はベストを尽くせたのか。

 エスコートに両腕を取られ、五十嵐が立たされている。その瞳が一瞬、鮫島を捉えたが、また達観したように瞑目した。

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真実の航跡

伊東潤
コルク
2019-03-05

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伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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