十月も下旬になり、香港の街も晩秋への衣替えが始まっていた。暑かった夏が噓のように涼しくなり、空気は澄んで湿気はなくなり、晴れの日も多くなった。ビクトリア・ピークの草木も幾分か色あせ、冬支度を始めているようだ。
鮫島の心は浮き立っていた。いよいよ白木を証言台に立たせる日が来たからだ。
シャワーを浴びて気合を入れると、鮫島は半地下の法廷へと向かった。白木はイギリス軍戦犯部起訴係の管理下に入ったので、彼らが法廷まで連れてくるはずだ。
書類を抱えて法廷に入ったのは、普段と同じ開廷の十分前である。
新証人の登場を前もって知らされているバレットは緊張気味だが、新証人が乾に不利益をもたらさないと見切っている河合は、余裕の笑みを浮かべている。
時計の針が十時を指すと、「Court!」という執行官の声が法廷内に響きわたった。傍聴人も含めた全員が起立し、三人の判事を迎える。
公判はいつものように始まったが、冒頭の裁判長の言葉に、鮫島は耳を疑った。
「本日は五十嵐被告の弁護人である鮫島氏から証人の申請があり、その証言を聞く予定でしたが、事前に提出された書類を精査した結果、当法廷では証人を不適格と見なし、召喚を見合わせることにしました」
──何だと!
鮫島は愕然とした。
「なお、弁護人に不服がある場合、本日中に証人の召致に必要な新たな書類を提出して下さい。それによって明日の召喚の可否を決定します」
──新たな書類だと。そんなものがあるわけないだろう。
今更、白木について追加する情報はない。
──何とかしなければ。だが、どうすればいいんだ!
鮫島は動転していたが、とにかく「裁判長!」と言って立ち上がった。
「本日証言予定の証人については、すでにイギリス軍東南アジア司令部の戦争犯罪法律部に証人申請を受理されています」
鮫島が法廷の上部機関の正式名称を持ち出したので、裁判長が少し色をなした。
「受理と承認は違います。当法廷への証人召致の是非は私たち判事の権限下にあり、当法廷の上部機関の管轄するところではありません」
その通りなので鮫島に反論の余地はない。
現在、裁判は弁護側証人の証言段階に入っており、いよいよ大詰めになってきている。だが白木を証言台に上げることは、軍令部まで調査を進めねばならないことを意味し、「ダートマス・ケース」の審理も長引くことになる。
裁判所の権限を盾に、判事たちが結審を早めようとしているのは明らかだった。というのもイギリスの戦犯裁判は「迅速な裁判が肝要」とされ、長引くと判事たちの失点に結び付くからだ。
──だが、このまま引き下がるわけにはいかない。
鮫島が再び発言を求める。
「被告には弁護される権利があり、当然のことながら弁護の過程において、証人を喚問する権利も付与されています。被告の権利は『軍令八十一条』に謳われている通りです」
「軍令八十一条」とはイギリス軍事法廷の規定の一つで、「裁判の手続きは正規の手順に則って行われるべきである」というもので、それに付随して、高位の法務官から「(被告に)弁護の機会が与えられないような方法は認められない」というガイダンスが付いている。
鮫島は、この曖昧な規定とガイダンスを指摘したのだ。
だが裁判長は受け付けない。
「裁判所の管轄権について異議を差し挟むことは、裁判を妨害することにつながるため、一切の申し立てを認めません」
「そうではなく、被告の権利として証人を喚問する要求をしているのです」
「それは違います。証人が証人たる資格を有していない場合、当法廷は、その人物を証人として認めるわけにはいきません」
「ではお聞きしますが、本日、私が証人として召致したのは白木省三元大尉で、軍令部第一部第一課に所属し、来島哲郎軍令部総長に近い立場にいました。これでも証人たる資格を有していないと仰せですか」
傍聴席からどよめきが起こる。それは、命令の出所がはっきりするであろうことを期待しているだけでなく、旧日本海軍の軍令部という中核に迫ることにもつながるからだ。
だが裁判長は頑なだった。
「鮫島弁護人、当法廷はイギリスの正義の伝統に則って行われています。その正義の伝統を最もよく知り、最も正しい判断を下せるのは、私と二人の判事なのです」
「お待ち下さい。貴国の正義の伝統は分かりますが、それは法の正義とは別のものではありませんか」
傍聴席がさらにどよめく。そこには、「よくぞ言った」という感慨も含まれているはずだ。
「それでは、あなた方の正義はどうだというのです。日本の正義は正しいのですか。国際社会に認められているのですか」
裁判長も苛立ちを隠せない。
「私は日本の正義ではなく、法の正義を問うているのです。イギリスが培ってきた正義の伝統には敬意を表しますが、それは長年にわたる慣習によって培われたものであり、当法廷で信奉すべき法の正義ではありません」
「ここはイギリスの軍事法廷です。その正義の伝統を踏みにじるような発言は許しません」
裁判長の顔が紅潮する。
だが鮫島は一歩も引くつもりはなかった。ここで引けば五十嵐の死刑は確定したも同じであり、判事たちの感情を害しても構わないと思った。
「裁判長が仰せの通り、ここはイギリスの軍事法廷です。しかし法の正義は不変です。法の正義を守るためにも、証人喚問をご許可下さい」
裁判長は渋い顔をすると、左右の判事と小声で何事かやり取りしている。
──傍聴席を気にしているな。
裁判長がため息をつきつつ言った。
「この件について、三人でもう一度、話し合います。よって当法廷は一時間の休廷とします」
裁判長はガベルを強く叩いてから退廷した。それを見届けた鮫島は、口惜しさに唇を嚙みつつ法廷を後にした。
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