夏物語 第一部

すべての慣れ親しんだものたちに

緑子は卵を手にとると、こめかみに大きく叩きつけた。巻子は卵まみれの顔でわたしをふりかえり、もう卵はないの、と訊いた。その後巻子は黙ったまま泣く緑子の背中をさすりつづけた――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』第一部、最終回。8年後を描く第二部は、書籍『夏物語』でどうぞ。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。

PHOTO:SHINTO TAKESHI

最終回 すべての慣れ親しんだものたちに

「そろそろやな」巻子は腕時計をみて言った。気いつけてな、とわたしは巻子にボストンバッグを渡した。緑子は立ちあがり、軽くジャンプをして、かついだリュックを体になじませた。

「そうや緑子、昨日は結局、花火できんかったな。あれ、ちゃんととっとくからな。湿らんように、ちゃんとしとくから、来年ちゃんとぜんぶやろな」とわたしは言い—それからすぐに、ちゃうちゃう、と首をふった。

「べつに夏じゃなくたってええねん、冬でも、春でも、会ったときにいつでも、したいときに花火しよう、いつでも」

 わたしがそう言って笑うと、緑子も笑った。

「じゃあ寒くなって、冬にしたいな」

 ああもう時間ないわ、と言いながら巻子と緑子は改札をぬけて、ホームを目指して進んでいった。何回も何回も緑子はふりかえっては手をふり、見えなくなったと思ったらまたひょこっと顔をだして、何度も大きく手をふった。ふたりの姿が本当に見えなくなるまで、わたしもずっと手をふりつづけた。

 家に着くと、急に眠気がやってきた。歩いているときは息をするだけで皮膚も肺も熱でいっぱいになって、すぐにでも水を浴びたいと思うのに、冷房をつけて五分もすれば汗はみるみるうちに乾いてしまって、まるでなにごともなかったかのように消えてしまう。

 ビーズクッションには巻子のつけたへこみがそのまま残っていた。緑子が座っていたすみっこには文庫本が何冊か、そのままになっていた。わたしは本を拾って本棚にしまい、昨晩、巻子がしていたのとおなじように、ビーズクッションを抱えるようにうつぶせた。卵にまみれた巻子と緑子。床を何度も何度も三人で拭いて、山のようになったぐしゃぐしゃのキッチンペーパー。

 いつまでも手をふっていた緑子。笑った巻子。小さくなっていったふたりの後ろ姿。まぶたが一秒ごとに重くなり、手足が少しずつ熱くなっていった。額のずっと奥のほうで、意識の切れはしがひらひらと漂っているのをあてもなく見つめているうちに、わたしは眠ってしまっていた。

 夢のなかで、わたしは電車にゆられていた。

 どこを走っているのかはわからない。人はそんなに多くなく、太股の裏が座席の布地の毛羽だちでちくちくする。わたしはキュロットパンツを穿いていて、手には何ももっていない。真っ黒に焼けた腕をじっとみる。腕を曲げると肘の内側にできる皺は、もっともっと黒くみえる。

 水色のタンクトップは少し大きい。かがんだり、腕をあげたりすると最近出てきた胸が脇からみえるかもしれないと思って、でもそんなことを気にする自分が変なんじゃないかとそんなことを考えている。

 駅に着くたびに人々が乗り降りをくりかえし、電車には少しずつ人が増えてくる。わたしの目のまえに、ひとりの女の人が座る。目の下の皮膚がたるみ、頬にうっすらと影ができている。もうそんなに若くはない女性だ。わたしとおなじような真っ黒で硬そうな髪を耳にかけて、ときどき首をひねって後ろの窓の景色をみている。それは、巻子と緑子を迎えにいく途中のわたしだ。

 三十歳のわたしは隣の人に自分の体がふれないように肩をすぼめ、くたびれたトートバッグのうえに両手を乗せてじっといる。窮屈に折り曲げられた膝は大きくて、その丸さはよく知ってるもののような気がしてしまう。そうだ、それはコミばあからやってきたものだ。目のまえに座ったわたしは、いつかの写真のなかで笑っている、コミばあと本当によく似ているのだった。

 電車の扉がひらいて父が入ってくる。灰色の作業着を着た父はわたしの隣に座ってもうすぐ着くと小さな声で言う。今日はふたりで出かける日なのだ。巻子と母は家にいて、今日はわたしと父のふたりだけで出かける日なのだ。どこにいくのかきこうとしてきけず、わたしは黙ったまま、父の隣に座っている。人がたくさん入ってくる。膝と膝のあいだにも、男の人たちの脚が入りこんでくる。

 車両のなかで人々はどんどん増えつづけ、ひとりひとりの体が少しずつ膨らみはじめているようだ。駅に着く。父はわたしを抱きあげて、肩に乗せる。わたしより数センチ高いだけの身長しかない父が、わたしを肩に乗せて立ちあがる。わたしは初めて父にさわる。ひしめきあう大きな人たちのあいだを、父は少しずつまえに進んでゆく。わたしの手首をしっかりにぎり、低く小さな肩にわたしを乗せて、わたしたちには決して気づくことのない人々のあいだを、一歩一歩進んでいく。

 押し返されて、立ち止まり、足を踏まれ、それからまた、まえに進んでゆく。扉が閉まる。誰かが笑って手をふっている。父はわたしを肩に乗せたまま、やってきたゴンドラにそっと飛び乗る。だんだん青くなってゆく空にむかって、ゴンドラは音もなく上昇しつづける。遠ざかってゆく地上の人々や、木々や、ぽつぽつと灯り始めた光が薄暮にきらめいている。わたしは父の肩に乗って、そのひとつひとつを、瞬きもせずに見つめている。

 冷房のぴくりともしない冷たさで目が覚めた。

 温度を見ると二十一度になっており、わたしは体を起こして冷房を切った。夢を見ていた気がするけれど、瞬きを何度かくりかえすうちにそれはあとかたもなく消えてしまった。ぷうんと気のぬけた音がして送風口が閉まると、どこからともなくすぐにぬるさがやってくる。夏の日差しがカーテンを真っ白に光らせ、子どもたちの奇声のような笑い声がして、車のやってきて去ってゆく音がした。

 わたしは風呂場に行って服を脱ぎ、パンツについたナプキンを剥がしてじっとみた。血はほとんどついてなかった。ティッシュにくるんでからゴミ箱に捨て、新しいナプキンの包装をとってパンツの股のところに装着してすぐに穿けるようにした。それをバスタオルのうえに置き、浴室に入って熱い湯を浴びた。

 傘を思いきりひらいたように、湯は無数の穴からいっせいに飛びだし、冷たくなった足の先がじんじんと鳴るように痛んだ。肩が内側から破れるようにしびれて、太股と両腕に大きな粒の鳥肌がたった。熱い湯はわたしの皮膚を打ち、温め、浴室の小さな空間とわたしとの境目を少しずつ溶かしていった。

 その白さが見えるほど湯気がたちこめても、目のまえの鏡には曇らない施しがされているので、ここではいつでも自分の体が見えるのだった。

 わたしは背筋を伸ばして、顎を引き、まっすぐに立った。少し動いて、顔以外のすべてを鏡に映してみた。瞬きせずにじっと見た。

 真んなかには、胸があった。巻子のものとそれほど変わらないちょっとした膨らみがふたつそこにあって、さきには茶色く粒だった乳首があった。低い腰は鈍くまるく、へそのまわりにはそれを囲むように肉がつき、横に何本もゆるい線が入り、渦を巻いていた。

 あけたことのない小さな窓から入ってくる夏の夕方の光と蛍光灯の光がかすかに交差するなかで、どこから来てどこに行くのかわからないこれは、わたしを入れたままわたしに見られて、いつまでもそこに浮かんでいるようだった。



お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤—生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』は、絶賛発売中です。

人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

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夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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