夏物語 第一部

ほんまのことなんてな、ないこともあるんやで」

「おかあさんは、ほんまのことをゆうてや」緑子の目から涙が吹き出すと、卵をもった右手を自分の頭に叩きつけた――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。第一部連載は、明日完結です。つづく第二部は、8年後の物語。絶賛発売中の書籍『夏物語』でお楽しみください。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)


PHOTO:SHINTO TAKESHI

第37回 「ほんまのことなんてな、ないこともあるんやで」

 巻子は一歩も動かずに、すぐ隣で背中を丸めて、嗚咽まじりに泣いている緑子を見ていた。そして我に返ったようにいきなり、緑子っ、と声を出すと、卵にまみれた緑子の肩をつかんだ。しかし緑子がいやいやと激しく肩をゆするので手が離れ、両手を宙にあげたまま、動けなくなった。

 白や黄色に固まりながら濡れながら泣いている緑子にふれることも近寄ることもできない巻子は、肩で小さく息をしながらまっすぐに緑子を見つめていた。そしてパックから卵をひとつ手にとると、それを自分の頭にぶっつけた。しかし角度の問題か、卵は割れずに床にころりと転がり、巻子はあわててそれを追った。そして四つん這いになってしゃがみこみ、静止したままの卵をめがけて額をぶつけて殻を割り、そのままぐりぐりと押しつけた。

 黄身と殻のくっついた顔で巻子は立ちあがって緑子のそばへゆき、さらに卵を手にとって、それを額にぶっつけた。緑子は涙を流しながら目をみひらいて、それを見た。そして緑子ももう一個を手にとると、こめかみに大きく叩きつけた。卵の中身がずるんと落ち、殻も落ち、巻子は今度は両手で卵をにぎり、ワンツー、のリズムで左右にぶつけ、卵まみれの顔でわたしをふりかえり、もう卵はないの、と訊いた。

 いや、冷蔵庫にあるけども、と答えると、巻子はドアをあけて卵を取りだし、つぎつぎに頭で割っていった。ふたりの頭は次第に白くなり、どちらかの足の裏で殻の砕けるぱしぱしという乾いた音がした。床には黄身と透明に膨らんだ白身とが水たまりのようになっていた。

「緑子、ほんまのことってなに」

 すべての卵が割られ、ひとしきりの沈黙のあとで、かすれた声で巻子は言った。

「緑子、ほんまのことってなに、緑子が知りたい、ほんまのことって、なに」

 体をぎゅっと縮めたまま泣く緑子に、巻子は静かに訊いた。緑子はしかし首をふるだけで、言葉にならない。卵はどろりと垂れながら、ふたりの髪や肌や服のうえで固まりはじめていた。緑子は泣き止むことができないまま、ほんまのこと、と小さな声を絞りだすのが精一杯のようだった。巻子は首をふり、体を震わせて泣きつづける緑子に小さな声で話しかけた。

「緑子、緑子、なあ、ほんまのことって、ほんまのことって、あると思うでしょ、みんなほんまのことってあると思うでしょ、ぜったいにものごとには、なんかほんまのことがあるって、みんなそう思うでしょ、でもな緑子、ほんまのことなんてな、ないこともあるんやで、なんもないこともあるんやで」

 それから巻子はつづけて何かを言ったのだけれど、その声はわたしには届かなかった。緑子は顔をあげて、そうじゃない、そうじゃない、と首をふり、いろんなことが、いろんなことが、いろんなことが、と三回つづけて言うと、台所の床に崩れるように突っ伏した。

 緑子は声をあげて泣きつづけた。巻子は手で指で緑子の頭についた卵をぬぐって、ぐしゃぐしゃになった髪の毛を何度も耳にかけてやった。ずいぶん長いあいだ、巻子は黙ったまま緑子の背中をさすりつづけた。

◯ お母さんが夏休みに八月はいって、お盆すぎたら、仕事ちょっと休めるから夏ちゃんとこ行こうとゆって、わたし東京はじめてでちょっとうれしい、うそ、だいぶとうれしい、新幹線ものるんはじめて、夏ちゃんに会うんすごいひさしぶり、夏ちゃんに会える!

緑子

◯ それから、きのうの夜、お母さんの寝言でおきて、なんかおもしろいこというかなっておもってたら、おビールください、っておっきい声で、びっくりして、ちょっとしたら涙がいっぱいでてきて朝までねれず、くるしい気持ちは、だれの苦しいきもちも厭やなあ。なくなればいいなあ。おかあさんがかわいそう。ほんまはずっと、かわいそう。

緑子

 巻子も緑子も眠ってしまったあとで、わたしは緑子のリュックをあけて、大きいほうのノートを取りだした。そして台所の流しの電気の下でそれを読んだ。ノートにはたくさんの文章と、無数の小さな四角で描かれた絵のようなものがひしめいてあった。緑子の文字は灰色の暗い光のなかで、ちろちろと震えているようにみえた。

 しかし見つめれば見つめるほど、それはわたしの目が震えているのか、そのあいだにある光が震えているのか、わからなくなっていった。いったい何が震えているのかわからないままにわたしは二十分をかけてそれをゆっくり読み、読み終えるともう一度最初から読んで、部屋に戻ってリュックにしまった。

 結局、花火はしなかった。つぎの朝、巻子と緑子は帰っていった。

「もう一泊していったら」

 そんなことは無理であることはわかっていたけれど、念のために訊いてみた。すると巻子は案の定、「今晩から仕事やねん」と返事をし、それから思いついたように緑子にむかって「あんただけでも、もうちょっと泊まっていく? まだ休みやし、そういうんもありやで」と訊いた。緑子は、お母さんと一緒に帰ると言った。

 ふたりが支度するのを待ちながら、わたしは窓の外を見た。駐車場に見慣れた車がならび、道はおなじ色をして、まっすぐに伸びていた。一昨日、散歩に出た緑子がむこうから歩いてきたのを思いだした。ウエストポーチをさわりながら緑子が歩いてきたな、それをこの窓から、ここから見たな、とわたしは思った。棒っきれみたいな細い脚を、一歩一歩まえに出して、緑子はまっすぐに歩いてた。

 何でもないようなその光景を、これからわたしは何度となく思いだすんだろうなという予感がした。緑子も巻子もわたしも、いまこうして確かにここにいるのに、なんだかもう思い出のなかにいるような気がした。部屋をふりかえると緑子は自分の髪を結うのに手間どっており、巻ちゃんにやってもらえばいいのにと言うと、自分でできるようになるねんと言って、黒ゴムを挟んだ唇に力を入れた。

 わたしは巻子のボストンバッグをもってやり、緑子は自分のリュックを背負ってアパートの階段を降りていった。一昨日、この部屋にみんなで帰ってきたときと少しの狂いもない、おなじ暑さと熱気のなかを歩き、人々とすれ違い、汗をかきながらさまざまな音をくぐりぬけ、電車にゆられて東京駅についた。

 巻子は、ホームで見つけたときとおなじように濃いめの化粧をしていた。新幹線が到着するまで、まだしばらく時間があった。わたしたちは土産物屋を覗いたり、売店の平台に積まれた雑誌を見たり、それから改札と時刻表が確認できるベンチに座って、やはり一昨日とおなじように、奥から奥からあふれでてくる人の波を見るともなく眺めていた。わたしは、巻ちゃん豆乳やで、と言った。

「豆乳?」

「豆乳やで、豆乳飲も。豆乳のいろいろが、女の人の体にはいいんやで」

「わたし豆乳て飲んだことない」巻子が笑った。

「わたしもないけど、わたしも飲むから。緑子も一緒にな、巻ちゃんと」

 あと五分、というところになって、「せやせや、これでなんか買い」と言ってわたしは緑子に五千円札を渡した。緑子は目を丸くして驚き、巻子はこんなようさん、そんなん気い遣わんでええ、ええ、と心配そうに首をふった。

「よゆう」とわたしは笑った。「これから、もっとようなるから。もっとがんばって、わたしらちゃんとようなるから」

 巻子は皺のよった唇をすぼめ、わたしの顔をじっと見た。それからペンをもって文章を書く仕草をしながら、「そうやあ、なるなる、ぜったい」と言って、顔をしわくちゃにして笑った。巻子の笑顔のなかには、コミばあがおり、母親がおり、懐かしい顔でわたしに笑いかけていた。

 そしてこれまで一緒に泣いたり笑ったりしてやってきた—わたしを見つけるといつも走ってきてくれた巻子、制服の巻子、自転車に乗っている巻子、通夜のあいだじゅう泣きながら目をつむっていた巻子、給料袋からお金を出して上履きを買ってくれた巻子、緑子を産んだ病室でぽつんとベッドに座っていた巻子、いつもわたしのそばにいた—そのときどきの巻子がいて、わたしに笑いかけていた。わたしは何度か瞬きをくりかえし、あくびをするふりをした。


お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤—生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』は、絶賛発売中です。



人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

初回を読む
夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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