夏物語 第一部

お母さん」と緑子は絞りだすように言った 

やっと帰ってきた巻子は酔っ払っていた。そしてろれつの回らない声で絡むかのように緑子に話しかけた――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。第一部連載も、いよいよクライマックスへ! この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

PHOTO:SHINTO TAKESHI

第36回 「お母さん」と緑子は絞りだすように言った 

 足もとには、花火のために出しておいたバケツがあった。何の変哲もない、プラスティック製の青いバケツ。なんでうちにバケツがあったんやろ、というようなことをふと思った。もちろんわたしが百均かどこかで買ったのだが、使ったこともないし、どうも新品のようにもみえる。じっとバケツを見ていると—こうして目のまえにあるバケツがなんだか奇妙な形をした奇妙なもののように思えてきた。なんだこれ。

 バケツという存在からバケツ性のようなものが分解されてゆき、そこにあるこれが何なのか、だんだんわからなくなってきた。文字にたいして未視感を覚えることはこれまでに何度もあったけれど、こうして物に感じるのは初めてだった。脇にある花火をみると、花火はちゃんと花火だった。

 わたしは少し安心した。花火。わたしが知っている、これは花火。そんなことを考えながら台所にある他愛のないものをひとつひとつ確認していると、巻子の声がした。顔をあげると、巻子は緑子に近づきながら、あんたは、わたしと口がきけんのやったら、どうでもしいな、どうでもええがな、と強い口調で言い放った。

「ひとりで生まれて、ひとりで生きてる顔してさ」

 最近では昼ドラでもなかなか聞けないような台詞を言って、巻子はつづけた。「わたしはいいねん。わたしはええよ、わたしはええねん、わたしはええんや」

 何がいいのか巻子はそればかりをくりかえし、緑子は顔をそむけ、乾いた流しのなかを睨むように見つめていた。これはうっとうしいやろうなとわたしは胸のなかでため息をついた。巻子はさらに近づき、巻子のほうを決して見ようとはしない緑子の顔を強引に覗きこむように自分の顔を近づけ、あんたは、と短く言った。

「あんたは、いつもわたしの話きいてないし、あんたはいつもわたしをばかにして、ばかにしたらええわ」

 緑子はなんとか巻子を退けようと、体をよじった。しかし巻子はさらに緑子に言葉を被せた。

「あんたがしゃべらんのやったら、しゃべれんのやったら、あのいつものノートでもなんでも使って、なんか言いたいことがあるんやったら、得意のあれで書いたらええがな、一生そうしたらええやんか、わたしが死ぬまで、あんたも死ぬまで」となぜか長いスパンの話も混ざりつつ巻子の口調はさらに強くなり、緑子は首をすくめて頬を肩におしつけた。

「いつまでこんなんつづける気いか、わたしは、」

 そう言うと同時に巻子が緑子の肘をつかみ、つかまれた緑子は激しく巻子の腕を振り払った。その勢いのまま緑子の手が大きな音をたてて巻子の顔に当たり、指が目のなかに入った。いたっ、と巻子は鋭く叫ぶと両手で顔を押さえた。巻子の目からは涙が出つづけ、どうしてもまぶたをあけていられない状態になり、指のはらを押しつけたり離したりしながら瞬きをくりかえしてもうまく開かない。

 目から涙が汁のように垂れ、頬に落ちた影のなかでぬらぬらと光るのがみえた。緑子はまっすぐに下ろした手を固くにぎり、苦しそうに口を結んだまま、目を押さえながら涙を流しつづけている巻子を見つめていた。

 ああ、いま現在、巻子も緑子も、言葉が足りん。わたしは思った。そして、こんな近くでふたりのやりとりを見ているわたしにだってもちろん言葉は足りず、言葉が足りん、足りん、足りんと頭のなかでくりかえすだけで、言えることが何もない。何にも言えることがない。台所が暗い。うっすらと生ゴミの臭いがする。そんなどうでもいいことをつなげながら、わたしは緑子の顔をじっと見ていた。

 奥歯を噛みしめているのか頬にうっすらと筋肉のすじが浮かび、張りつめた表情で、どこでもない一点を凝視している。巻子は目に手をあてたままうつむいて、辛そうな声を漏らしている。そんなふたりを見ているうちに—何を思ったのか、知らないうちに壁のスイッチに手がのび、わたしはほとんど無意識のうちに、台所の電気をつけていた。

 ぱちんという音がして、何回かの瞬きのあとに蛍光灯が完全についてしまうと、台所で身を寄せあうようにして立っているわたしたちの姿がはっきりみえた。

 見慣れたどころか、ほとんど体の一部になっているはずの台所はどこか白々しく、いっそう古びてみえた。白くて平板な蛍光灯の光が隅々までを浮かびあがらせるなかで、巻子は真っ赤になった目を細めた。緑子は自分の太股ににぎりこぶしをぎゅっと押しつけたまま、巻子の首のあたりをじっと見つめていた。

 そして、はっと音がするほど大きく息を吸ったかと思うとつぎの瞬間—巻子にむかって、声を発した。お母さん、と緑子は言った。文字通りの、お母さん、という音と意味の塊を緑子は口から出した。わたしはその声にふりかえった。

 お母さん、と緑子はふたたび大きくはっきりした声で、すぐそばにいる巻子を呼んだ。巻子も驚いた顔で緑子をみた。ぎゅっとにぎられた緑子の両手はかすかに震え、外部から少しの力でも加わろうものならぱちんと弾けて、そのまま崩れてしまいそうなほどに張りつめているのが伝わってきた。

「お母さんは、」緑子は絞りだすように言った。

「ほんまのことをゆうてや」

 緑子はそれだけを言うのがやっとの様子で、小さく肩を上下させている。薄く開いた唇が、かすかに震えている。何かを押しとどめようとして唾を飲みくだす音が聞こえる。体のなかでぱんぱんに膨らんでいる緊張を、どうやって逃せばいいのかがわからないのだ。そして緑子はもう一度、ほんまのことゆうて、とほとんど消え入りそうな声で言った。その声が巻子に届くが早いか、はっ、と大きく息を吐く音がし、そのあと巻子は大声で笑いだした。

「ちょ、ははは、あんたいややわ何ゆうてんの、何よいったいほんまのことて」

 巻子は緑子にむかって笑ってみせ、大げさに首をふってみせた。

「聞いた夏子? びっくりするわあ、ほんまのことって。いや意味わからん、ちょ、あんた翻訳したってえな」

 喉の奥から無理やり声をひっぱりあげるようにして、巻子は笑いつづけた。自分の不安と人の訴えをこんなふうにごまかす巻子はあかん、ここは笑いこける場面ではない。正解ではない—わたしはそう思ったけれど、口には出さなかった。緑子は巻子の笑い声のなかで、うつむいたまま黙っている。

 上下する肩の幅が大きくなってきたので、このまま泣くのだろうとわたしは思った。しかし緑子は急に顔をあげると、捨てるために流し台に置いてあった卵のパックを—それこそ目にも止まらぬ素早さでこじあけた。そして卵を右手ににぎると、それを大きくふりあげた。

 あ、ぶつける、と思った瞬間、緑子の目からぶわりと涙が飛びだして—それはまるで漫画のこまに描かれる涙のように本当にぶわりと噴きだして、卵をもった右手を自分の頭に叩きつけた。

 ぐしゃわ、という聞き慣れない音とともに、黄身が飛び散り、すでに叩きつけた手のひらを緑子はさらに何度もこするように叩きつけ、卵は髪のなかで泡だった。割れた殻がところどころに突き刺さり、耳の穴に入りこんだ黄身が垂れ、なすりつけるように手のひらで額を押しまわし、緑子はぼたぼたと涙を流しながら卵をもう一個、手にとった。なんで、と吐くように言い、手術なんか、とつづけながらさっきとおなじように叩きつけ、白身と黄身が混じりあうようにして緑子の額を垂れていった。

ぬぐいもせず、構いもせず、緑子はさらに卵を手にとり、わたしを産んで、そうなったんやったらしゃあないでしょう、痛い思いまでしてお母さんはなんで、と巻子にむかって小さく叫ぶと、さらに激しく卵を叩きつけた。

 あたしはお母さんが、心配やけど、わからへん、し、ゆわれへん、し、お母さんはだいじ、でもお母さんみたいになりたくない、そうじゃない、と緑子は息を飲み、はやくお金とか、わたしだってあげたい、お母さんに、あげたい、ちゃんとできるように、そやかって、わたしはこわい、いろんなことがわからへん、目がいたい、目えがくるしい、なんで大きならなあかんのや、くるしい、くるしい、こんなんは、生まれてこなんだら、よかったんとちがうんか、みんながみんな生まれてこなんだら、何もないねんから、何もないねんから—泣き叫びながら今度は両手で卵をつかんで、それを同時に叩きつけた。

 殻がそこらじゅうに散らばって、ティーシャツの襟首にはどろりとした白身がひっかかり、真っ黄色の塊が肩や胸にくっついた。緑子は立ったまま、わたしがこれまでに聞いたことのある人の泣き声のなかで最大の声を出して泣いていた。


お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤—生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』は、絶賛発売中です。

人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

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夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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