夏物語 第一部

男に起因することなんて何もひとつも聞きたくはなかった

なかなか帰ってこない巻子を待つ間、わたしと緑子は「ジンクス」「縁」「怨恨」「暗澹」などといった言葉の意味を電子辞書で調べてみる。突然ものすごい音がして、ふりかえるとそこに巻子が立っていた――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』、絶賛発売中! この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)


PHOTO:SHINTO TAKESHI

第35回 男に起因することなんて何もひとつも聞きたくはなかった

 ほんのりと逆光になっていたせいで表情はよくみえなかったけれど、巻子が酔っていることはすぐにわかった。言葉を発したわけでもよろめいたわけでもにおいがしたわけでもないのに、巻子が酔っている、それもかなり飲んでいるだろうことは、どういうわけかはっきり感じられるのだった。

 すると案の定、巻子はもたついた口調で「ただいま帰りましたわね」と言いながら靴を脱ごうとするのだけれど、すでに脱いでいることに気がつかない。履いてもいない靴を脱ごうとして、くるぶしをこすりあわせてややこしい足踏みをすることになり、「巻ちゃん、靴すでに脱げてる」とわたしが声をかけると、足かゆいんや、などと言い訳をしながらうらうらと部屋に入ってきた。

「心配したやんか、なんで電話にでやんの」

 わたしが責めると、巻子は眉に力を入れてまぶたをぐっとひきあげてまっすぐにわたしを見た。額の皮に何本もの太い横皺が走り、白目は少し充血しているようにみえた。

「電話は、電池が、のうなった」

「コンビニでも買えるやろ」

「あんなん高うて買うかいな、あほらしもない」

 巻子はそう言うとバッグを絨毯にぽてんと置き、足の裏をどたどたと鳴らしながらビーズクッションのところまでやってくると、両手を広げて覆いかぶさり、しばらくそのまま動かなかった。どこ行ってたん、と思わず訊いてしまいそうになるのをすんでのところでわたしは飲みこみ、大きく咳払いをした。

 するとその音が思いのほか大きく響き、何かを問い質すための咳払い、というように聞こえなくもないと思い、この咳払いは何の意思表示でもないということを示そうと追加でもうひとつ咳払いをしてみたのだが、今度は喉がひっかかってしゃっくりのような音が出た。それをまたごまかすためにもうひとつ咳払いをすると、今度は本当に痰がからまった感じになってげほげほと激しくむせかえり、しばらくのあいだ咳きこむことになってしまった。

 ビーズクッションに張りついていた巻子は、わたしの咳が止むと顔だけをこちらにむけてわたしを見た。眉毛は消え、したまぶたにはアイラインが黒くにじみ、青黒くへこんだくまがいっそう深く、濃くみえた。頬骨のあたりにはマスカラの繊維くずが散らばっていた。皮脂とファンデーションが混じりあってところどころが分離し、まだら模様を作っていた。

「か、顔洗ったら」

 思わずわたしがそう言うと、「顔なんかどうでもええんや」と巻子は言った。緑子は電子辞書をもったまま、部屋のすみっこからわたしたちのやりとりを見ていた。そのとき—もしかしたら巻子は、緑子の父親、つまり元夫に会っていたのではないかという考えがさっと頭をよぎった。

 というのは昨晩、巻子はこっちの友だちに会いに行く、というようなことを言っていたわけだけれど、東京に友だちがいるなんてこれまで一度もきいたことはなかったし、もし知りあい程度であれそういう相手がいるのだとしたら、これまでのわたしとのやりとりのなかでちょっとくらい話題に出るのが自然だった。でもそんな人物の話は一度も出なかったし、つまり巻子に東京の友だちなどいないのだ。

 では、巻子はこんなになるまで誰と酒を飲んでいたのだろう。巻子の性格からして、ひとりでこんなに酔っ払うまで飲んでくるということはないような気がした。巻子もわたしもビール以外の酒が飲めないし、巻子はわたしほど弱くはないが、だいたい酒がそんなに好きというわけでもない。ましてや久々に会う妹と娘が家で待っていることはわかっているのだし、そもそも七時頃には帰ってくると言っていたのだ。

 ということは、おそらく何か予定外のことが起こり、予定外の誰かと会って、そして予定外の流れで、こんなにも予定外に酔ってしまった。じゃあ予定外の相手とは誰か。だいたい巻子はホステスをして日々客の相手をしてはいるけれど、基本的には人見知りで、初対面の人間とちょっとした会話をするならまだしも、いきなり酒を飲みに行くなんてことは考えられない。ということは、素直に単純に考えてみると—巻子が東京で酒を飲む相手なんて、元夫しかいないではないか。

 でも、わたしには巻子に質問する気はなかった。「なんでそんな酔うまで飲むんなー、えっ、誰と誰と?」みたいに、冗談めかして軽く話をふってみる気もなかった。巻子が誰とどこで酒を飲もうとそれは巻子の勝手であり、わたしには関係のないことだ—というのはもちろんそれはそうなのだけれど、そういう巻子自身を尊重した流れということではまったくなかった。

 昔の女友だちに会っていたとでもいうのなら、その女友だちとどんな話をしたとか何を食べたとか、その人は今どうしているのかなどなど、いくらでも話を聞く気になれた。けれど、巻子の元夫のことで知りたいことはおろか、どんなやりとりをしただの、それぞれがどんな気持ちでどんな言葉を使っただの、過去と現在についてどういう関心と反省をもっているだのを聞く気には、まったくならなかった。

 なぜかはわからない。べつに巻子の元夫に個人的な感情など一切ないし、何の感想ももってはいない。それどころか、まともに顔を思いだすこともできないし、ほとんど何も覚えていない。けれどもしそこに、妹として聞いてやるべき巻子の感情や葛藤があったとしても、元夫に—男に起因することなんて何もひとつも聞きたくはなかったし、かかわりたいとも思わなかった。だからわたしは黙っていた。

「まあとにかく、シャワー入ったら」とわたしは言った。「そうそう、うちら花火をね、買ってきたんよ、さっきコンビニで。明日ふたり帰るやろ、そやから今晩三人で花火しよかな思て」

 話しかけても巻子はうつぶせになったまま首を動かし、いちおう聞いてる、というようにあいづちを打つだけで返事をしない。

 両脚はまるで割り箸みたいにやけにまっすぐに伸びており、足の裏が見え、親指のつけ根から裂けたパンストは、くるぶしのあたりまで伝線していた。かかとは繊維の下で古くなった鏡餅のようにささくれだってひび割れ、ふくらはぎにはたるむような肉はいっさいなく、それは乾いた魚の硬い腹を思いださせた。

 部屋の隅のほうからわたしと巻子を見ていた緑子は電子辞書を机に置くと、台所へ行った。電気もつけず、暗いまま、緑子は何をするでもなく流し台のまえに立ち、じっとこちらを見ていた。わたしもなんとなく台所へ行って緑子の横に立ち、そこから部屋を眺めてみた。

 いつもと何も変わらない部屋だった。壁側に本棚がみえ、右奥の隅に小さな机があり、正面に窓がある。日焼けの目立たないクリーム色のカーテンは一度も買い替えておらず、その下でビーズクッションに体を丸めたまま動かない巻子がいる。テレビの画面のなかで、いろいろなものが動いていた。

 しばらくすると巻子が両手を絨毯につき、腕立て伏せをするようなかっこうで膝をついてゆっくり四つん這いの姿勢になった。そしてまるで何かのリハビリでもしているようなあんばいで、左右に何度か首をふった。それからうめき声のようなため息をついて、時間をかけて起きあがった。

 目があった。さっきよりもいくぶん顔つきがはっきりしたようにみえた巻子は、その目を細めてしばらくこちらをじっと見、それから足の裏のぜんぶをつけてどたどたと数歩進んで、部屋と台所の境目までやってきた。柱にもたれて、額の生えぎわをばりばりとかき、それから緑子に話しかけた。

 巻子の口調は、聞きようによっては絡んでいるといえなくもない、いわゆる酔った人間の口調でもあり、わたしはそれに少し驚いた。というのも、わたしが同居していた頃はもちろん、これまでビールなど一緒に飲むことがあってもこんなふうにわかりやすく酔ってくだを巻く、というような巻子をただの一度も見たことがなかったからだ。それから、最近の巻子は大阪でもずっとこんな調子なのかという不安がよぎった。

 もしかして巻子はよくこんな調子で緑子に接してるとか? どろどろに酔って文句を言いながら寝転ぶ巻子のかたわらでじっとしている緑子が頭に浮かぶ。しかし、いまそんなことを考えて、こんな状態の巻子に問い質してもしょうがないので黙っていた。


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パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤—生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』は、絶賛発売中です。


人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

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夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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