夏物語 第一部

起きてない苦痛について考えること

「クリニックに行ってカウンセリング受けてくるわ」と出かけたきり、なかなか帰ってこない巻子。まさかいきなり手術を受けてるってことはないやろか――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』、絶賛発売中! この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新。次回は8月13日です)


PHOTO:SHINTO TAKESHI

第34回 起きてない苦痛について考えること

 それにしても巻子は何をしてるのか。病院には行ったのか、行っていないのか。いったいどこで何をしてるのか。それから馬鹿げた考えがふと頭に浮かんだ。いやいやいやいや、そんなことはありえないと想像するはしから常識がその可能性を打ち消しにかかるのだけれど—まさか巻子、何もかもを一回の上京で済ませようとして、いきなり手術を受けてるってことはないやろか。

 いやいやいやいやいくらなんでもカウンセリングに行ってそのまま手術というのはない。さすがにない。虫歯を削るのとはわけが違うのだ。そんなことはありえないだろうとはわかってはいるのだけれど、しかし一度そう思ってしまうとわたしは少しだけ不安になり、緑子に気づかれないように携帯電話でネットに接続して「豊胸、日帰り」で検索してみた。

 すると数秒後に「ワンデイ! 豊胸」というサイトがいちばんうえに表示され、選択してさらに進んでみると、「患者さまの負担の少ない日帰り豊胸術!当日の流れはこちら」とあり、全体的にピンクに統一されたページに飛ぶと「ご来院:午前十一時 → カウンセリング:午前十一時半 → 手術:午前十二時半 → 休憩:午後一時半 → ご帰宅:午後二時 → ショッピングOK!」と書かれてあった。ぜんぜんあるやん日帰り……とわたしは心でつぶやき、携帯電話をそっとふたつに折った。

 テレビではびかびかした色調のスタジオで芸能人たちがクイズに答えており、誰かの発言がいちいち大きくテロップになって飛びだした。何を言っているのかほとんど聞きとれないほどに音量を小さくしているのにもかかわらず、テレビは驚くほど騒々しかった。緑子は眉間にちからを入れたまま、膝をまるめてじっと動かないでいる。

「緑子さん、いまきっと、頭んなかでいろんなことがぐるぐるぐるぐるしてるよね」とわたしは言ってみた。緑子は顔をあげてわたしを見た。

「しかし、あらゆる心配にはおよばんよ」わたしは目を細めた。「だいたいね、こういう場合ね、心配であれ何であれ、予想したことは裏切られるというジンクスがあるんだよね。予想したことは裏切られる、っていうわたしなりのジンクスがあるんですわ。これは今までのわたしの人生において、すべて、すべて的中してるんやなこれが。予想したことっていうのは起こらんのですよ。たとえば」

 わたしは咳払いをひとつしてから話をつづけた。

「たとえば地震。地震というのもその代表的なひとつであって、地震が起きた、起きましたよね、でもその起きたときっていうのは誰ひとり、世界じゅうにこれだけおる人のなかで誰ひとりとしてその瞬間に地震のことを考えていなかったからこそ起きたのであって、その人々の予想のほんの一瞬の隙間を狙って地震というものはやってくると、こういうわけよ」

 緑子は難しい顔をして、わたしをじっと見ていた。

「たとえば今。今、地震きてませんよね。それは最低でもわたしらふたりで地震の話してるからっていう」わたしは言った。「もちろん地震がきたとき、誰も地震について考えていなかったなんていうことはこれ、証明することはできんよね。でも、証明できひんからこそ、みんながそれぞれささやかなジンクスをね、もってるっていうのがいいんじゃないのかなって」

 緑子はそれについてしばらくのあいだ考えているみたいだった。それからふと、ジンクスを日本語でなんていうのかが気になった。立ちあがろうとすると緑子はびくっと体を震わせてまたもや中腰になり、わたしのティーシャツのすそをきゅっとひっぱった。

「なんよ、どこもいかんやんか、こっちがびびるがな」とわたしは笑い、机のひきだしから電子辞書をとって座り、電源を入れた。数年まえ、商店街のがらがら抽選機でみごと三等を当てたときの賞品で、画面が光る機能はないけれど、なかなか使いやすくて重宝している。

「ジンクス」と入力してみると文字が表示され、「因縁のように思う事柄。本来は縁起の悪いことをいう」という説明書きが出た。わたしはつぎに「因縁」を入力した。すると今度は狭い画面がいっしゅん真っ暗に見えるくらいに長文がずらずらとひしめき、「事物を生じせしめる内的原因である因と外的原因である縁。事物、現象を生滅させる諸原因。また、そのように事物、現象が生滅すること。縁起」。

 目を凝らして読んで聞かせると、緑子は何度か肯きながら顎をひっこめた。そして難しい顔つきのまま電子辞書を手にとると、くんくんとボタンを押して文字を入力していった。画面を見つめ、ひとしきりそれをくりかえすと—急にはっとしたように顔をあげて、ぱちぱちと目を瞬かせた。自分が思いついたことを頭のなかで言葉に置き換えて、それで間違いがないかどうかをひとつひとつ確認しているみたいだった。

 そして自分の考えが辿りついたものに驚いたようにさらに大きく目をあけて、それからもう一度手にもった辞書をじっと見つめた。どうしたん、と訊いても、緑子はどこか興奮したような表情で首をふるだけで、何も答えなかった。わたしは電子辞書で適当な単語を調べていった。

「ほれ、『緑』と『縁』ってよう似てるな、漢字が。ほんならつぎは『縁』を調べてみようやないの。あー、なるほど。そしたらつぎは、隣の『怨恨』。見てこの、見るからに怨恨っていう感じの字面。やばいな。こわいな。怨恨とは恨み。なるほど。しかし『恨み』って書くよりも倍になる気がするな、パワーというかダメージが。例文読みます。『怨恨による殺人』ね。あるよね、ありがちよね。

 そしたらつぎは『殺人』。これもようある。毎日どこかで起こってる。っていうか、今この瞬間も、誰かがどこかで殺されてる……知ってた緑子、人が人を殺すときに、例えば包丁使うとするやん、そのときの包丁のむきっていうか、包丁の刃をうえにしてもってるか下にしてもってるかで、殺意のあるなし、あるいは強弱みたいもんの証明になるの。

 法律ではそれがかなりなポイントになるんやで。じっさいわたしの知りあいが—」と言いかけて、この話はさらにややこしく入り組んだうえにずいぶん長くなるのだったと思い直し、もっと陰惨な言葉を引いてみよう、なんかものすっごい恐ろしいのを、と緑子に提案した。

 殺戮、業火、慄然、暗澹、気がつけばわたしたちは頭の鉢と鉢の骨がごりごりと当たるくらいに身を寄せて、電子辞書の小さな液晶画面に夢中になっていた。

「じゃあつぎは……でもさあ、わたしときどき考えるねんけど、今この瞬間にもほんまにさ、死んでるとか殺されてるどころじゃなくて、たとえば拷問とかさ、まじで八つ裂きにされてる人とか、目玉をえぐり出されてる人とか、ほんまにものすごい目に遭ってる人がどっかにおるわけやんか、確実に。冗談とか想像じゃなくて、いまこの瞬間にもこの地球上のどこかでそんなものすごい苦痛が存在してるわけやろ。

 じゃあ、起きてない苦痛について考えることはできるやろか。たとえば、全身を焼かれてる人はおるやろう。ぜんぶの歯を抜かれてる人は? たぶんおる。じゃあ、死ぬまでこそばされてる人はどう? こそばしはなくても笑い毒きのことかやったらありえるか。薬物とかな。いややな、笑いながら死ぬとか、いちばんいややな。悪夢やな。ほかには」

 電子辞書に打ちこんだ文字のイメージから思いつくことをつらつらと話していると、緑子はやめてくれというように首を小刻みにふった。せやな、とわたしは返事し、ふたたび息をひそめて頭をくっつけて液晶画面に集中していると—まるでこのアパートにアパートとおなじくらいの何かが落ちてきたか衝突したかのようなものすごい音がして、わたしたちは今夜最大にびくつき、文字どおり飛びあがった。

 反射的にとりあった手をつかんだままふりかえると、そこに巻子が立っていた。電気を消した暗い台所のむこう、ドアを開けっ放しにした玄関のたたきに巻子は立っており、廊下の蛍光灯の灰色の光がその輪郭をぼんやりと浮かびあがらせていた。


お知らせ

パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤—生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』は、絶賛発売中です。


人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

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夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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