夏物語 第一部

10時になっても、巻子は帰ってこなかった

遊園地から帰ってきたわたしたちは、巻子の帰りを待つが、巻子は八時を過ぎても戻らず、九時になっても戻らなかった。携帯電話もつながらず――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』、絶賛発売中! この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)


PHOTO:SHINTO TAKESHI

第33回 十時になっても、巻子は帰ってこなかった。

 七時頃には帰ってくると言い残してクリニックに行った巻子は、八時を過ぎても戻らず、九時になっても戻らなかった。携帯電話にも何度か電話をかけてみたけれど、呼びだし音がなるまえに留守番電話サービスに転送されてしまう。電池が尽きたか、故意に電源を切っているのだ。「もしもし巻ちゃんお疲れさま。心配してるから、これ聞いたら折り返しお願いね」わたしはメッセージを吹きこんで通話ボタンを切った。

 東京で三人で食べる最後の晩御飯—といってもたった二泊の滞在なのだから最後というのも大げさなのだけれど、とにかく何を食べようか、せっかくだから電車に乗ってどこかへでかけてもいいし、何か食べてみたいものはあるかなど、巻子が帰ってきてから相談して決めようと思っていた。しかし肝心の巻子が帰ってこない。

 緑子を連れてスーパーに行って食材を買い、何か簡単なものでも作って先に食べていようかとも考えたけれど、米もないし、こんな時間から料理をするのは正直に言うと億劫で、わたしはそもそも調理をするのがものすごく苦手なのだ。そうするうちに巻子が帰ってくるかもしれない。

 巻ちゃんが帰ってきたら昨夜とおんなじとこやけど中華料理屋行って、なんかほかのん食べようか、もう帰ってくるやろ、と言いながら、緑子に何かあげられる小説がないかどうか本棚を眺めたり、雑誌をぱらぱらとめくったり、緑子はノートに何かを書いたりしながら待っていたのだが、十分が過ぎ、二十分が過ぎ、一時間が過ぎても巻子は帰ってこなかった。

「緑子、ちょっとコンビニいってみよか」

 九時十五分になるのを待って、「コンビニいってきます」と書いたメモをちゃぶ台に残し、少し迷ったけれど鍵はあけたまま、わたしは緑子を連れて家を出た。

 生ぬるい夏の夜の空気は少しだけ湿っていて、かすかに雨の匂いがまじっていた。何年かまえに百均で買ったビーチサンダルの底は薄く、アスファルトのごつごつとした感触が足の裏に伝わってきた。砕けたガラスを踏んでしまって底が破け、土踏まずにぶすりと刺さってそこから血がだらだらと流れるところが頭に浮かんだ。緑子はわたしの少し先を歩いていた。緑子の脚はまっすぐで細く、膝下までまっすぐに伸ばした白いソックスがまるで骨のようにみえた。

 その瞬間、いま書き進めている小説のこと—どうしてもうまく書くことができずにもう何週間もそのままにしている小説のことが頭をよぎり、暗い気持ちになった。

 コンビニは一瞬で毛穴が縮むくらいに冷房が効いていて、わたしたちは棚に陳列された商品をひとつひとつ眺めながら店内を一周した。緑子は立ち止まるでも何を手にとるでもなく、冴えない表情でわたしの少しあとをついて歩いた。お菓子はいらん? アイスは? わたしの質問にも答えることなく、少しあとでゆっくりと首をふった。明日の朝はパンにしよな、晩御飯はもうちょっと巻ちゃん待とか、と言いながら、わたしは六枚切りの食パンを手にとった。

 ぴんこん、という自動ドアの明るい音とともに数人の子どもたちが勢いよく駆けこんできて、その少しあとで保護者らしき数人の男女がおしゃべりしながらやってきた。そのうちの何人かは酒を飲んでいるようで頬を紅潮させ、大笑いしている。どうもこれからみんなで花火をするらしく、足りない分を買いにきたらしい。真っ黒に日焼けした子どもたちはレジのすぐ横のワゴンに積まれた花火にむらがって、楽しそうに騒いでいた。緑子は少し離れたところからそれをじっと見つめていた。

「緑子、うちらも花火やろか」

 話しかけてみても、緑子は動かない。子どもたちが出ていったあとワゴンを覗いてみると、小分けになった花火のパックがいくつかと袋入りの花火セットが積まれてあった。線香花火、ねずみ花火、パラシュート花火に、かみなりさま。子どもの頃の花火の記憶。

 夜の少しの風にもろうそくの火は消えかかり、わたしと巻子は手のひらで包むようにして、花火の先に炎が燃えうつるのを見つめていた。火薬のにおい、小さな火の噴きだす音。膨らんでゆく灰色の煙のなかで照らされているいくつもの顔。

 気がつくと隣に緑子が立っていた。花火いろいろあるよ、とわたしが言うと、緑子はワゴンのなかをちらりと見た。そして唇のはしにきゅっと力を入れたまま覗きこむと、しばらくしてからロケット花火の束を手にとった。緑子これみてみ、やばいやつやと笑いながら蛇玉を見せると、唇が薄くひらいて歯が覗いた。それから緑子はひとつひとつの花火を手に取って念入りに見つめ、わたしたちは五百円の花火パックをひとつ買って帰った。

 十時になっても、巻子は帰ってこなかった。ここが東京でいくら慣れない街だとはいっても、まさか駅の名前を忘れるということはないだろうし、駅からこの部屋まではまっすぐ道なりに歩いてくるだけだから、こちらも迷いようがない。何か問題が発生したのであればわたしに電話をかけてくればいいだけの話で、もし充電が切れたのであれば携帯用電池なんかどこにでも売っている。

 では電話を落としてしまったか、財布を落としてしまったか、あるいはわたしに連絡をしたくない理由が何かあるのか。またあるいは、何か事件というかできごとに巻きこまれたりなんかして、前後不覚のじたいに陥っている可能性が、あるのかどうか。

 いろんな状況を想像してみても、しかしそのどれもが現実的でないような気がした。これだけ人があふれている東京で、何かあればどんなかたちであれどこからか連絡がくるはずだし、なんといっても巻子は四十歳になろうという大人というか人間なのだ。連絡がないということは、それはたんに、本人が連絡をしてこない以上のことではない、と考えるのが筋である。

 そういうわけで、いくら巻子の帰りが遅くなっていてもべつに大したことではない。しかし緑子はもちろんそうは思えないようで、雨漏りを受けるコップが水位を増してゆくように、だんだん不安になっているのがわかる。黙っていても、内側から少しずつ硬くなりはじめているのが伝わってくるのだった。

 玄関のドアのむこうで階段を昇り降りする音が響いたり、少しでも気配がするとわたしたちはさっと顔をあげて反応し、しかしそれは巻子ではなくてやりすごす、ということが何度もあった。わたしはテレビの音量をぎりぎりにまで下げ、開きっぱなしにしている携帯電話の画面を見、数分おきにメールの送受信ボタンを押して何も届いていないことを確認した。

「なあなあ緑子、さすがにお腹減ってるっていうかこれ限界ちゃう、パン食べよか」と誘ってみると、緑子は三角に折った膝に顎を乗せたまま、あいまいに首をふった。そしてそのすぐあとに—いきなりがばっと中腰になり、まるで重大な告白でもするような真剣なまなざしでわたしをじっと見つめた。それからまた思い直したようにもとの位置に座り、膝を抱えた。

「その動き、びびるわ」わたしは真剣にびっくりしたのでそう言うと、緑子は軽く下唇を噛んで、小さく鼻で息をついた。

「巻ちゃんが行くってゆうてたん、なんてとこやったかなあ……銀座は銀座、銀座やけど、名前なんやった」わたしは独りごとのように言い、巻子とクリニックについて話した内容を再現しようとしてみても、銀座、という地名以外に、どこにも何にもつながらない。

 なんやったっけ、巻ちゃん名前言うてたっけ、と目をぎゅっとつむってどんな些細なことでも何かないかと集中しても—人気があって、パンフレットがホストクラブ的に黒っぽくって金のかかった仕様だった、くらいのことしか思いだせない。

「もしかして緑子、病院の名前とか知ってたりする?」と訊いてみても、当然のことながら首をふる。そうよな、知らんよな、知ってたらすごいよな、とできるだけ陽気な気持ちで笑ってみせた。



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夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

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夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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