PHOTO:SHINTO TAKESHI
第32回 姉妹2人だけの葡萄狩り
「わたしがあれ何歳やったかな、幼稚園くらいかな、コミばあんとこに行くまえ。海の近くに住んでたとき。幼稚園でな、遠足あってん。葡萄狩り。緑子、葡萄狩りとかしたことある?」
緑子は首をふった。
「葡萄狩り」わたしは笑った。「覚えてるかぎり、幼稚園で楽しみにしてたことなんかいっこもないのに、なんでかわたし、その葡萄狩りだけすっごい楽しみにしててな、もう何日もまえから楽しみにしてて、そわそわしてて、自分でしおりみたいなん勝手に作ったりしてん。あれなんやったんやろなって思うくらい、ほんまに指おり数えるって感じで、楽しみにしてた葡萄狩りがあってん。
でもな、行かれへんかってん。その遠足に行くにはべつにお金が必要で、それがなかったんやな。いま思ったら数百円とかそんなんやと思うけどな。んで朝起きたらおかんが『今日は休みやで』って言うねんな。なんでって訊きたかったけどそんなん訊かれへんやんか。
お金ないのに決まってるから。それに朝は基本的におとんが寝てるから、わたしも巻ちゃんもめっさ静かにしてなあかんかってん。ラーメンも、音とかたてんと食べなあかんかってんで。
うんわかった、家おるわな、って言うてもうたらもう、あとからあとから涙が出てきて。自分でもびっくりするくらいに悲しくて、涙が止まらへんねん。泣き声だしたらあかんから部屋のはしっこでタオル噛んでずうっと泣いてな。わたしこうみえて、ちっちゃいときからだいたいのこといけんねんけど、あれはあかんくて、なんであんなに泣いたんやろなって思うくらいに涙が出て、あれはなんであんな悲しかったんやろな。
葡萄狩りなんかもちろんしたこともないし、どんなんかもわからんし、べつに葡萄が食べたかったわけじゃなかってんけどな。あれはなんであんなに泣いたんやろなって、今もときどき思うねん。葡萄がいったい、何やったんやろうって。
でもさ、あとでちょっとこう思ったりしたな。葡萄の房ってさ、手のひらに乗せてもったらさ、なんかちょっとだけとくべつな感じせえへん? 粒がみんなきゅっと集まっててさ、ときどきすごい小さい粒とかあってさ、みんな落ちんようにくっついてんねんけど、でもぽろぽろっと落ちていってさ、重くもなくて軽くもなくて。なんか、とくべつな感じ。はは、せえへんか。あんなに泣いたせいでとくべつに思うんか、とくべつに思うからあんなに泣いたんか、今でもわからんねんけどな。
んで昼まえになって、おかんが仕事に行って、おとんも珍しくどっかに出ていって、タオル噛んだままずっとすみっこでまるまって泣いててんな。巻ちゃんはあのとき何歳やったかなあ、あんときは困らせたな。巻ちゃんなんとかわたしに元気ださせよ思ってくれてんねんけど、わたしずっと泣きっぱなしでな。
ほんなら巻ちゃんが、『夏子ちょっと目つむっとき』って言うねんな。『ええって言うまで、あけたらあかんで』言うて。んでわたし三角座りして膝んとこに目つけたまま、泣いててん。ほんで何分くらいたったんかな、巻ちゃんが横に来てな、『そのまま、目つむったまま、こっち来てみ』ってゆうて、わたしの手にぎって、立たせて、んで三歩くらい動いてから『ええよ』って言うて。
それで目をあけたらな、タンスのひきだしとか、棚の取手のとことか、電気のかさんとことか、洗濯もんのロープとかな、いろんなとこに——靴下とかタオルとか、ティッシュとかおかんのパンツとか、もうそのへんにあるもんなんでもかんでも、ありったけのもんを挟んだりひっかけたりして、いまからふたりで葡萄狩りやでって言うねん。夏子、これぜんぶ葡萄やから、ふたりで葡萄狩りしようって。んでわたしを抱っこして、高くあげて、ほれとりやとりや、ゆうて。ひとつ、ふたつ、ゆうて。
わたし巻ちゃんに抱っこしてもらって、手のばして靴下とって、パンツとって、ぜんぶとって、穴だらけのざるもってきてそれを籠にして、そこに入れていってん。まだあるで、こっちも、そっちも、ゆうて、わたしを一生懸命抱っこして、巻ちゃんわたしに葡萄狩りさせてくれてん。うれしいやら悲しいやらで、そやけどいっこいっことっていってな——食べられる葡萄じゃなかったし、粒つぶでもなかったけど、これがわたしの葡萄狩りの思い出」
緑子は黙ったまま、窓の外をみていた。知らないあいだにわたしたちを乗せたゴンドラはいちばん高いところを過ぎ、少しずつ高くなってゆくビル群にも、どんどん近づいてくる地上にも、無数の光が瞬いていた。
「なんでこんな話、緑子にしたんやろな」わたしは笑いながら首をふった。少しして、緑子はペンをにぎった。
〈ぶどう色やから〉
緑子は一面が薄むらさきに染まった窓の外を示してわたしの目を見、それからまたすぐに窓のほうに顔をむけた。懐かしいほうへ、まだ見ぬほうへ広がってゆく空には、指のはらであとをつけていったような雲のきれはしが散らばっていた。その隙間からはかすかな光がこぼれ、むらさきの、うす紅の、濃い青の濃淡を、やさしくふちどっていた。
目をこらせば遥か上空で吹いている風がみえ、手を伸ばせば、世界を包んでいる膜にそっとふれることができそうだった。二度と再現することのできないメロディのように、空は色を映していた。
「ほんまやな、葡萄の粒んなかおるみたい」とわたしは笑った。
一日が終わろうとしていた。ゴンドラはかたかたと小さな音をたてながら下降していった。昇降台で、さっきとおなじ係員がわたしたちにむかって手をふっているのが見えた。ゴンドラが到着しドアがあけられると、緑子はひらりと降り立った。昼間の熱気は去り、汗が皮膚とティーシャツのあいだでひっそりと冷え、地上にはもう夏の夜のにおいが満ちていた。
お知らせ
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