PHOTO:SHINTO TAKESHI
第31回 世界でいちばん安全な場所
観覧車は決められた軌道を決められた時間に沿って移動し、ゴンドラはゆっくりと上昇していった。わたしは顔をあげて目線を水平に保ち、できるだけ下を見ないようにして、どんどん広がってゆく空の部分を眺めていた。緑子は窓に額をくっつけるようにしてじっと下界を覗きこみ、それからお尻を滑らせるようにしてさっと反対の窓ぎわに移動すると、やっぱりおなじように顔をくっつけて窓の外を見つめた。
高い位置でポニーテールにした緑子の髪はところどころがたわみ、たくさんの後れ毛がうなじのあたりでやわらかく膨らんで、肩に落ちていた。首は細く、少し大きめのティーシャツを着ているせいか肩は余計に薄くみえた。キュロットパンツから突きでた脚は日によく焼け、そのふたつの小さな膝には粉が白くふいていた。緑子は、片手をポーチのうえにのせ、もう片方の手でそっと窓をおさえ、東京の街を見つめていた。
「巻ちゃん、もうそろそろこっちむかってるころかな」わたしは言ってみた。緑子は窓に顔をむけたまま、それには返事をしなかった。
「巻ちゃんが今日行くって言ってたのは銀座で、銀座はえっと、あっちのほう、や、こっちかな」
自分がいま立っているところ、そもそも地理というものにまったく興味がもてないわたしは、適当な方角を指さして言った。ビルの密度がひときわ高く感じられる部分を見つめ、たぶんあのへんやな、と緑子に適当に説明した。
「けっこう遊んだなあ」とわたしは言った。緑子はわたしのほうを見て、同意するように肯いた。鼻の頭と頬の高い部分が日に焼けてうっすらと赤みを帯びて、そこに夕暮れの青っぽさがふりかかっていた。それを見ていると、ずっと昔——わたしが子どもだったとき、こうしておなじように観覧車に乗って街を見下ろしたことがあるような気がした。
青い夕暮れが広がってゆく空を、ゆっくりと昇っていったことがあるような気がした。巻子はそばにおったんやっけ。あれは母が連れてきてくれたんやったっけ。コミばあは? 乗りものに乗ったわたしに手をふる母の顔や、コミばあの皺の寄った手を思いだそうとしても、それがいったい記憶のどこにあるのか——探せば探すほどだんだんあいまいになってゆくような気がした。
上空で小さな鳥が弧を描き、それからどこかへ消えていった。はるか遠くにそびえるビルが白く煙ってみえた。子どものわたしは誰と、だんだん青くなっていく空や街をこんなふうに眺めたんやっけ。思いだそうとするうちに、わたしは自分の記憶にだんだん自信がもてなくなっていった。
そんなことはなかったのかもしれないな、とわたしは思った。ただ匂いや色や気持ちなんかの似た部分が重なってこんなふうに感じているだけで、遠い昔に誰かと空や街が青くなっていくのをこんなふうにみたことなんて、本当にはなかったのかもしれない。
「きれいやな」とわたしは緑子に話しかけてみた。そしてふと思いだしたことを言ってみた。「それに、知ってた? 観覧車ってすごい安全なん」
緑子はわたしの顔を見て、しばらくしてから首を横にふった。
「子どもんときに誰かが教えてくれたんやと思うねんけど、誰やったんかな、観覧車ってさ、横からみたら薄いし、打ちあげ花火みたいやし、すかすかやし、どう考えてもゆれたりしてこわい感じするやんか。なんかあったら、いちばんに倒れそうやん。でも、どんなに強い風が吹いても、どんなにひどい雨が降っても、大きい地震がきても、びくともせんねんて。
観覧車はむかってくるそういうちからをうまく逃して、ぜったいに倒れへんようになってるねんて」わたしは言った。
「それ聞いたとき、まだ子どもやったからさ、ほしたらみんな観覧車で生きていったらええやんかって、わりに本気で思ったわ。観覧車を家にして、みんなおんなじ窓から手ふって。糸電話とかで、隣のゴンドラとやりとりしたり、長いロープ渡して洗濯もん干したりな。子どもやったからな、よう絵に描いたわ。世界中に、観覧車がいっぱいある世界。地震がきても台風がきても安全で、みんながおなじように、だいじょうぶな世界」
わたしたちは黙ったまま、窓の外を見つめていた。
「緑子は、巻ちゃんと観覧車に乗ったことある?」
緑子はあいまいに首を動かした。
「そうか。巻ちゃん忙しいからな」
緑子はわたしをちらりと見て、また窓の外に目をやった。緑子の顎のあたりをみていると、わたしはふと母親の横顔を思いだした。病気になるまえの、まだしっかり肉がついて元気だった頃の母の顔だ。高い鼻は少しだけ湾曲していて、睫毛がとても長かった。
頬には小さなぼこぼこがあって、それなに、と尋ねたわたしに、にきびを潰したらこうなるからしたらあかんでと笑っていたことを思いだす。緑子は、巻ちゃんよりも母に似ているのかもしれないとわたしは思った。そしてそんなのはわかりきっていることなのに、緑子はわたしの母にもコミばあにも一度も会ったことがないのだと、そしてコミばあも母もおなじように一度も緑子には会わなかったのだと——そんな当たりまえのことをぼんやりと考えた。
「わたしが今の緑子くらいのときに、おかんが死んだんやわ」
なんでこんな話をしようとしてるんやろと思いながら、わたしは話しはじめた。
「コミばあが死んだのは、十五歳んときか。巻ちゃんは二十二歳と、二十四歳のときやな。お金なかったからふたりとも団地の集会所で葬式してな、べつに何にもない、たぶんいちばんお金かからん式やったんやろうけど、コミばあの遠縁がお寺さんしてはってな。ひととおりやってくれはって、あれもいつか、ちゃんとお金返さんとあかんな」
緑子はわたしをちらりと見てから、また窓の外に目をやった。
「団地の家賃は府営住宅で二万円もせんかったから、なんとか住んでいけてんな。巻ちゃんはそんときもう大人、っていうか成人してたやろ。それでわたしら離れんで済んだけど、もし巻ちゃんとわたしの年が近くてふたりともが子どもやったら、ようわからんけど、わたしら施設みたいなとこに、ばらばらに引き取られてたんかもしれんな」
緑子は窓に顔をむけたまま、動かなかった。いちばん遠くのビルの避雷針の先端が、赤く点滅しているのがみえた。それは静かに呼吸をする生き物を思わせるような間隔で、わたしはしばらくそれを見つめていた。
「わたしは、巻ちゃんにおっきしてもらったとこあるな」わたしはつづけた。「ふたりだけになったとき、おかんがおらんくなったときも、コミばあおらんくなったときも、巻ちゃんがぜんぶしてくれたな、いろんなことな。ふたりで皿洗い行って、巻ちゃんがもって帰ってくる焼肉弁当、毎日食べてたわ」
窓の外には薄暮がひろがっていた。それは何万枚もの薄くてやわらかなレースが重なりあってたなびいているのをみあげるような夕暮れで、遠くで、近くで、無数の光が瞬いていた。その頼りない光の粒は、わたしが生まれてそして数年のあいだ暮らした小さな港町を思いださせた。
夏の夜には暗い海のむこうから何隻もの帆船がやってきた。人々は浮かれ、子どもたちは生まれて初めてみる白い肌の外国人に興奮し、走りまわった。文字が消えかけた看板に、薄汚れた電柱に、店の軒先に、船をつなぎとめておくボラードに——見慣れた町のあちこちに、いくつもの電球が連なって房になり、夜風にゆれるのを、わたしはこんなふうに見つめていた。
お知らせ
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