夏物語 第一部

14歳でわたしは初めて履歴書を書いた

チンピラの男にぼこぼこにされた十四歳のノゾミ。杏は十三歳だった――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』、絶賛発売中! この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

PHOTO:SHINTO TAKESHI

第27回 十四歳でわたしは初めて履歴書を書いた

 横になって暗闇のなかで目をつむっていると、頭のなかがぱたんぱたんと規則正しく折りたたまれていくような感覚がつづいて、寝つけなかった。そのうち体がだんだん熱く感じられるようになり、わたしは緑子と巻子のあいだで何度も小さく寝返りを打った。足の裏がじんじんとして熱く、少しずつぶあつくなっていくような感じがした。頭ははっきりしてたけどちゃんと酔ってたんやな、とわたしは寝苦しい体のなかで身をよじり、息を吐いた。

 閉じたまぶたの裏で、色や模様が浮かんでは混じりあって消える。それが何度もくりかえされる。消毒液の匂いが均質に漂っている、誰もいない廊下を進む。病室のドアをそっと押してなかを覗くと、ベッドにあおむけになったノゾミがいる。包帯に巻かれているせいで、どんな顔をしているのかはわからない。

 十四歳。十四歳の頃。わたしが初めて履歴書を書いた年だ。近所の適当な公立高校の名前を書いて、薬局の使い尽くされて穴のあいた試供品の口紅を塗って、工場へゆき、朝から晩まで小さな電池の漏電を調べていた。紫の液体が指先につくとそれは深くしみこんで、いつまでも真っ青なままだった。

 洗っても洗っても色がとれないのは洗い場の流しにいつも積みあがっている灰皿だ。煙草の煙、いつまでも頭のなかで反響するマイクのエコー、ビールケースを外に出して、母が手をのばしてうえの鍵、しゃがんで下の鍵を締める。歩いて帰った夜の道、電柱の陰で、自動販売機の裏で、卑猥な言葉を投げかけてにやにや笑う男たち、黒くなった口のまわり、ズボンの汚れたすそ、ふらふらと伸びてくる手。わたしは急ぎ足でビルの階段をあがる。

 そのうち、いつか誰かと話した言葉と、そうでない言葉の見分けがつかなくなってゆく。夢でみた景色と記憶がゆるやかに編みこまれ、どこまでが本当のものなのかがわからなくなっていく。いくつもの裸を包む細かな霧にはほんまは音があるんとちゃうか。高い壁、男湯と女湯を仕切る高い壁、銭湯のカコーンという鹿威しの音が響いている。湯船に浸かるたくさんの女たちの裸がこちらを見ている。たくさんの乳首がいっせいにこっちを見る。湯気がこもり、わたしは足の裏を揉んでいる。

 かかとはいつも皮がささくれだっていて、剥いても剥いてもきれいにはならない。おかんの足はいつも粉をふいていて真っ白で、爪は茶色に変色していた。コミばあが泡立てた石鹸をつけた手でわたしの足の指のあいだを洗ってくれる。湯を沸かすときのレバーのちょっとした角度がだいじ、コツがいるねん、かちかちかち、それからぼんっとガスのつく音、コミばあの裸、体じゅうに飛び散った血豆を数える。これなに? 血豆。これつぶしたらどうなるん? ここから血がぜんぶふきだして、コミばあの血がぜんぶ出て、コミばあ死んでしまうのん?

 あのときコミばあは、なんて答えてくれたっけ。なあコミばあ、もっと血豆を守らなあかんのとちゃうんのん、つぶれんように、血がふきだせへんように、なあコミばあ死んだらわたしどうしたらええん、なあコミばあ、死なんとって、死なんとって。コミばあ、ずっとずっとそばにおって。そんなん言いな、一緒にこれ食べよう、お腹へったら何もできひん、巻子がいっつももって帰ってくる焼肉弁当は甘い肉、たれのついた茶色いご飯。

 なあ巻ちゃん、さっき浮浪者みたいな人おったやん、さっきじゃなくてもいろんなところにおるやんか、家ない人、ホームレスの人、どこにも帰るところがなくなった人。わたしいつもおとんちゃうかなってどきっとするねん。なあ巻ちゃん、あそこにおる人、あそこでぼろぼろになってうずくまってる人がおとんやったら巻ちゃんどうする、家つれて帰ってお風呂入れたる? やっぱりそうする? つれて帰って、何か食べさせて、それから何しゃべったらええんやろう。

 なあ巻ちゃん、九ちゃん泣いてくれたよな、おかんの葬式に顔くしゃくしゃにしてきてくれて、二千円もって九ちゃん来たなあ、夏の暑い日、九ちゃんぼろぼろ泣いてくれた。コミばあ、高架下でよう叫んでたん覚えてる?

 わたしの手もって、巻ちゃんの手もって、電車ががあって走ってうるさくなるタイミングでコミばあ叫んでた、電車、明日になったら緑子つれて電車にのって、ゆれて、巻ちゃん帰ってくるまでどっかいこかな、せっかくやし、緑子の髪の毛ちゃんとくくって、電車座って、髪の毛多いなあ、指がどんどん入っていって森みたい、わたしみたい、なんであんた鞄もってないの、さっきまで隣に座ってたんはお父さんとお母さんやなかったん、なあ、あんたは昔、電車で会った子よな、なんでそんな笑ってるん、昔じゃない……ああそう……これって今日の朝のこと……そうか今日の朝のこと……ふうん、なんかめっさ昔みたい……新聞のちらしに……家の広告、間取りのちらし、あれにいっぱい窓を描いて、ちっちゃい四角、好きな窓……おかんの窓、巻ちゃんの窓、コミばあの窓、みんなにひとつずつ好きなときにあけられる窓を、描こう、描いたら、光が入って風が入って、そんなふうにわたしは眠った。


お知らせ

パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤—生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』は、絶賛発売中です。



人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

初回を読む
夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード