夏物語 第一部

うちらこんなんで負けるかいな」

巻子の勤めるスナック「シャネル」にバイトをしたいとやってきた専門学校生の二人組、ノゾミと杏。2人は男に売春させられていたのだった――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』、絶賛発売中! この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)


PHOTO:SHINTO TAKESHI

第26回「うちらこんなんで負けるかいな」

「も、全身ぼこぼこ。顔がとくに酷くてな、顎の骨折れてな、ほかも陥没したとこもあってな、意識なくなってな。相手は捕まったけどシャブかなんかやってたんちゃうかって。そのへんのしょうもないチンピラや。よう死なんかったで」

 わたしは首をふった。

「ほんで警察が入って、調べてるうちにうちの店でバイトしてたこともわかってきて」巻子は唇のはしにきゅっと力を入れて言った。

「じつは、十四歳やってん」

「十四歳?」わたしは巻子の顔を見た。

「杏は十三やって。ほんまやったら中一。年齢わかって働かしてたんちゃうんかって話で、警察が来たんやな。んでもっと言うたら、ここでも客引いてたんちゃうかっていう」

「それは」

「もちろんそんなことないし、わたしらもさすがに中学生とか思うかいな」巻子は首をふった。「体も大きいし、そこはほんまにわからんかってん。杏はそのまま行方不明。どこにおるんかまったくわからん」

「ノゾミは」

「一回、わたしひとりで病院にみにいった」巻子はビール缶を手にもち、少しして思い直したようにちゃぶ台に置いた。「ノゾミ個室におってな、顔も肩も包帯ぐるぐるまきで板みたいなんで挟まれて固定されててな、顎の骨ぐちゃぐちゃになってるやろ、なんも食べられんで、鼻から下には鉄のマスクみたいなん嵌められて、そのすきまからチューブ入れてそこから栄養とってな、そんなふうにしてたわ。

 わたしが部屋入ったらな、動かれへんけどわかったみたいで、目のまわりもまだ青黒くてぱんぱんに腫れててな、それでも口閉じたまま、あーあー言うて体起こそうとするから、何もせんでええ、そのままおり、ゆうて。んでそのまま座って、それにしてもあんたすごいことなってるなあ、ゆうて。

 わたし明るい感じでいこって思ってたからさ、あんたそれ鉄仮面伝説やがな、リアルでスケバン刑事やがなゆうて笑ってみせてな。ノゾミ、スケバン刑事知らんかったけどな。ほかには最近のママの失敗談とか、よお知ってるお客さんがスクラッチくじ当たった話とかな、ノゾミもしゃべられへんけど、うんうん聞いてる、みたいな目でこっち見て、小一時間くらいおったんかな。あほなことばっかり聞かしてな。

 んでまた来るから要るもんあったらゆうんやで、今度来るときはごっついヨーヨーもってくるからな、とかゆうてまた笑って。お母はん来はるよなって訊いたらノゾミもちょっと顔動かして。ママが言うに、おかあはんは九州におるみたいで、齢きいたらあんた、三十やゆうやんか。

 ノゾミは十六とかそのへんで産んだ子やねんな。おとん違いのまだ小さい弟と妹がおってすぐには来られんらしいけど、でも来ることは来るって話で、よかったなゆうて。わたしもまた来るからな、って行こうとしたらな、指でそこにあるペンとメモ帳とってくれゆうから、渡したんや。

 そしたらゆっくりな、よろよろの字で、ごめんなって書いてな、みせごめん、って書くんや。わたし、あんた何ゆうてんの、ゆうて。謝りな、ゆうて。あんた痛かったやろ、痛かったやろゆうて、ごしごし足さすってな。だいじょうぶやだいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、すぐようなる、ノゾミ、うちらこんなんで負けるかいなゆうて。なんとか笑お思てんけど涙止まらんくてな、ノゾミも泣いてな、涙で包帯もろもろなってな、ノゾミ、ずっとさすっててんけどな」

◯ 最近はものをみてると頭がいたい。最近はずっとずきずき。目からいろんなものが、入ってくるのか。目から入ったもんは、どっからでていくのでしょうか。どうやってでるの、言葉になって、涙になってか。でももしか、泣いたりも、しゃべったりもできひん人やったらば、そうやって目にたまったもんを出すことができん人やったらば、目からつながってるところがぜんぶぜんぶふくらんで、いっぱいになって、息をするのもしんどくなって、それからどんどんふくらんで、目はもうきっと、あかなくなってしまうでしょう。

緑子

 わたしは知らないうちに口もとにやっていた手をおろし、それから眠っている緑子をみた。それからふたりとも黙ったままビールを飲んだ。皿のうえの柿ピーは、柿の種が食べつくされてピーナツだけが残っていた。つけっぱなしになっていたテレビでは北京オリンピックの様子が映しだされていた。

 電子音のような乾いた笛の合図のあとで、水泳選手たちがいっせいに飛びこむ瞬間だった。競泳用の水着をつけた何人もの女性選手たちのつるりとした大きな背中が規則正しく水面から飛びあがり、沈み、左から右へ、そして右から左へ、全身で水を刻むように進んでいった。

 巻子がリモコンを手にとってチャンネルを変えた。名前を聞いたこともない邦楽のバンドがギターをかき鳴らしながら、最愛の人よ、俺の胸のなかで幸せになれ、と叫んでいた。わたしたちはその演奏を見ることもなく眺め、しばらくしてまたチャンネルを変えるとつぎは報道番組で、内閣改造を受けて上昇した支持率と秋の総選挙の可能性についてコメンテーターたちがあれやこれやと話していた。

 それからべつの番組では、先月発売されたアイフォンの攻略法についての特集が組まれていた。わたしたちは黙ったまま、画面を眺めていた。巻子はまたチャンネルを変えた。みるからに予算のかかっていなさそうなローカル番組が映しだされ、「お受験は今」という派手なテロップが画面の右うえにはりついていた。カメラは難関私立学校の合格発表で番号を見つけた子どもと、その肩をぎゅうっと抱きよせ、涙を流して喜ぶ母親の姿を映していた。

 もうほんとに、血のにじむような思いでふたりでここまで来ましたから、と母親は嗚咽に震える声でコメントしながらハンカチで鼻を押さえ、ええ、この子の才能を信じて、こうなったらいくとこまで行ってほしいです、え? もちろん東大です、と力強く締めくくった。どうやらこれは過去の映像で、それから数年たった現在、この親子を再訪するという企画らしかった。

 画面は焼酎のコマーシャルに切り替わり、新発売のカップラーメンになり、痔の薬になり、滋養強壮ドリンクになり、わたしたちはつぎつぎに映しだされては流れていくそれらを黙って眺めていた。

「けっこう飲んだよな」巻子は言った。ちゃぶ台のうえにも絨毯のうえにもビールの缶が乱立し、台所のゴミ袋に捨てた分もある。ぜんぶで何本飲んだのか数える気持ちにはならなかったけれど、ふだんでは考えられないほどの量を飲んだに違いなかった。それでもわたしは自分が酔っているようには思えず、眠気もなかった。時計を見ると十一時だった。

 今日は朝早かったし、もう寝よか、と巻子は言って、ボストンバッグから寝間着用のティーシャツとスウェットパンツを取りだして着替え、わたしは歯を磨きに立った。入れ替わりで巻子も歯を磨き、わたしは緑子の左どなりに横たわった。巻子が腕を伸ばして電気を消し、わたしの左どなりに寝転んだ。巻子の髪からかすかにトリートメントの匂いがした。


お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤—生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』は、絶賛発売中です。



人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

初回を読む
夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード