夏物語 第一部

時給の話はルール違反

巻子の勤めるスナック「シャネル」でバイトとして働き始めた中国人大学生のジンリー。長く勤めている韓国人ホステスのスズカはそれがおもしろくないのだが――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』、絶賛発売中! この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

PHOTO:SHINTO TAKESHI

第25回 時給の話はルール違反

「弟とか三人おって、いちばん下の子はちょっと知的障害の気もあって、おばあもおじいもおって、一家が貧乏からぬけだすには勉強しかない、頭つかうしかない、ゆうて。そやけどジンリーは女やろ、おじいとかが女に学は必要ないとか、金をつかうんやったら男につかえ、みたいなこと言いだしてめっちゃ揉めて、せやけどジンリーしか一発逆転できる可能性がなくて、ジンリーだけが頭良かったんやな。

日本語できたら日本で稼げるしゆうて、ひとりで日本語勉強しはじめてちょっとずつできるようになったんやて。古い教材っていうか本で勉強したから、店でも客に『すっごーい!』とか言う場面でも、真顔で『見あげたものですね』とか言うたりするねんけど、まあそれはいいねんけど、『あんな村から勉強する人なんかひとりもいないんです、走りまわっていろんな人からいじめられながら罵られながらお金をかき集めてくれて、母も父も大変だったです』ってジンリーも涙ぐんでな。

んでなんとか学つけて立派になって、たくさん親孝行してあげたい、学費でようさんお金かかるけど、こっちでバイトしてできるだけ貯めたい、がんばりたい、わがまま言って来させてもらった日本やから、みたいな話になって。

 なんやあんたも苦労してんねやんか、みたいになって、スズカもぐっときてな。よっしゃわかった、ジンリー、あんたはわたしを大阪の姉ちゃんと思って何でも言いや、とか涙ぐんで。んで三人で乾杯してやな、肩組んでユーミンの『真夏の夜の夢』とか歌ったんや。客もこんし。

んでジンリーが意外にこれ、タンバリンがわりと本格的で腕まわして太股でばしばし鳴らしてなんか競技みたいになってるねんけど、なんでかそのあいだじゅうずっとぱっきぱきの笑顔でわたしの目みてぜったいそらさへんねん、あれいっつもこわいんか面白いんかわたしもわからんようになるねんけど……って、なんやっけ、そうそう、そんな感じでうちらめっさ盛りあがったあとに、時給の話になったんや。

んでスズカがジンリーに、あんたぶっちゃけなんぼもらってんのって訊いたんやな。ほんまはルール違反やねん。給料の話はご法度やん。せやけどスズカ、あんたにはがんばらなあかん事情もあるんやし、足もと見られて少ないんちゃうか、いつでも交渉したるでな、わたし立場的にはママの右腕やしな、とか胸張ってゆうて。そしたらジンリーな、『わたし二千円です』って」

「え」

「え、やあるかいな」巻子は言った。「その金額きいたときのスズカの声よ……死にかけの鶏でも出さんような声だして。死んでしもたか思たわ。んでわたしもそのとき初めて聞いてんけど、スズカの時給」巻子は言った。「千四百円やってん」

「六百円も安い、ジンリーより」

「それも一年まえ、めっさねばって賃あげ交渉してな、しぶしぶ千四百円になったんや」

「きっつ」

「きっついやろ」

 ちなみに巻ちゃんは時給なんぼ……という質問をぐっと飲みこみ、わたしは訊いた。「それで辞めたんかいな」

「せやせや。二千円って聞いたときスズカ、顔が、も、折り紙の裏みたいに白うなってもうて。ほんでからつぎは赤なって、まだらんなって。んで何にも気づかんでジンリー、目えに涙浮かべながら『お姉さん、もっともっとわたしたちは歌をうたいましょう!』とかゆうて『サバイバル・ダンス』とか入れるしやな、丸椅子に座ったまま放心状態のスズカの肩をジンリーぐらんぐらんゆらしてやな、日本語めちゃくちゃなサバイバル・ダンスやろ、んでジンリーがこれまたまじで歌が下手くそやねん、頭おかしなりそうやったわ。

 んで、つぎの日そっこうでスズカがママつめたら、ちょっとけんかみたいになってもうて、んでスズカそのまま来やんようになってしもてん。

『あの子は中国から来て言葉もわからんのに勉強して家族のためにがんばっとるんやがな』て言われたんやて。ほしたらスズカも『わたしも韓国から来て家族のためにがんばってる』って涙ながらに言い返してな。そしたらママ、『ジンリーは若いがな。ほんで腐っても女子大生やがな。値打ちがあるがな、しょうがないがな』って。こんだけ店まわして、これまで飲んで飲まれて一生懸命やってきた自分が情けないってスズカ、泣いてたわ」

 わたしは「サバイバル・ダンス」がわんわん響くなか、精神が瀕死状態になってるスズカがジンリーに肩を組まれて体をぐらんぐらんにゆさぶられてるところを思い浮かべてみたけれど、そもそもわたしはふたりの顔を知らず、その想像がどれくらいうまくいっているのかいないのかいまいち判断することができなかった。

「それから警察も来たんや」少しあとで巻子が言った。

「スズカが店に灯油まいて?」

「ちゃうがな」と巻子はため息をついて言った。「その一悶着あったあと、女の子が面接に来たんや、ふたり。スズカ辞めてしもて、ジンリーも毎日じゃないし、ふだん店におるん、わたしとママと五十代のテツコさんだけになってしもて。どんだけ照明落とさなあかんねんって話やんか。そしたらおなじ専門学校に通ってて親友なんですっていう二人組が来たんや、バイトさせてくれって。

んで毎日入れるっていうから、ま、いちおう面接してな、んで来てもらうことになったんや。ノゾミと杏って名前で、本名でいきますゆうて。はきはき元気で明るそうやし、それぞれ愛嬌もあったし、よう笑うしな。

 でも、頭とかな、プリンなっててばしばしの金髪やし、専門学校とか嘘やねん。見たらわかるねん。杏とか横の歯が一本ないし、笑ったときに奥歯も虫歯だらけで真っ黒やし、ノゾミなんか髪の毛いつもからまってるしやな、へんな話、ちょっとにおいするときもあってな。座りかたとか、なんか食べるときの感じですぐにわかるんやんか、そういうの。誰にも構われへんで大きなった子らの典型やな。

 親もちゃんとおるとは言うてるけど、二人でどっかふらふらしながら友だちんとこか彼氏んとこかわからんけどそのへんで暮らしてる感じやったわ。バッグに汚れた洗濯もん入ってるときもあったしな。でもこっちも人が足らんからそういうところはあんましみんようにして、まあ来てもらってたわけよ。お酒もよう飲むし、売上がんばるわママー! とかゆって。すぐに慣れて、人懐っこくって、ママもあんたら可愛いやん、みたいな。じっさいにめっさいい子らやってん。

 んで、二ヶ月くらいたったんかな、ある日ふたりともが来やん日があったんや。連絡なしで。無断欠勤とかそれまで一回もなかったから、あれえ、ゆうてな。そしたらつぎの日も、そのつぎの日も来やんくてな、連絡もとられへんくなって。店はええ感じやったし仲は良かったし、店終わりにみんなで焼き鳥食べたりな。ボウリングもしたことあるわ。

 その頃にはもう専門学校生やっていうのが嘘やってことは、いちいち確かめはせんけどなんとなくみんなわかってて、将来は喫茶店やってみたいねんとか、美容師にも興味あるとか、やっぱり結婚して子どもとか産んで幸せになりたいわとか話してな。ええ子らやし、一生懸命でな。そんなんやから、辞めるんやったら辞めるってちゃんと言うやろし、わたしらも心配してさ。

 そしたら警察が来てやな。早い話が、ノゾミと杏、売春させられとったんや、男に。男に言われるままにずうっと客とらされとってんな。んで、笑橋の汚いホテルでな、客にぼこぼこにされてん。ノゾミが」

 わたしは巻子の顔を見た。

「それがけっこうえぐかってな」巻子はくしゃくしゃになったカマンベールの包み紙をしばらく見つめ、それから顔をあげた。「ホテルの従業員が救急車呼んでえらい騒ぎになってん。警察がうちの店に来る一週間くらいまえになるんかな、あっち側のな、病院側な。ホテルでなんか事件あったんはなんとなく聞いたけど、まさかそれがノゾミやったとはな」

 巻子は息を吐いて言った。


お知らせ
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夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

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夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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