夏物語 第一部

スズカが店をやめたわけ

緑子は眠ってしまったけれど、夜の姉妹のながいおしゃべりはつづく。巻子のつとめるスナック「シャネル」も、最近は問題つづきで――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』、絶賛発売中! この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新。次回は7月29日です)


PHOTO:SHINTO TAKESHI

第24回 スズカが店をやめたわけ

「あ、終わってもうた」巻子が目を細めてわたしの顔を見た。「いい曲は、はよ終わるんやなあ」

 それから曲は明るいテンポのインストに変わり、巻子はトイレに立った。わたしはカマンベール・チーズの包みをめくって三角形の頭を齧った。小さなお祭りのような曲は一分もたたないうちに終わり、ボブ・テルソンの歌う「コーリング・ユー」になった。

「店な」トイレから戻ってきた巻子は言った。わたしはチーズおかきのあわさった二枚をはがし、チーズのついていないほうを齧りながらあいづちを打った。

「最近は問題つづきでさ」

「ママは元気にしてはるんやろ。シャネルのママ」

「ママはな」巻子は言った。「いや、でも店的には頭痛いことばっかしやねんわ。看板だしてねんうちの店。ビルの下に。ごっついの」

「ごっついん」

「ごっついねん。シャネルーて書いてな、カタカナでな。黄色の電球で縁どってんねん。あれな、いちばん出勤の女の子が店あける直前に下に降りてって電源いれて電気つけるねんけどな、コンセント差しこむとこあるやん。電源っていうの。あれがビルの壁っていうか、まあすぐ近くにあるわけ。んで、普通にそこに差すねんな。そしたらあんた、隣のビルの一階のタバコ屋やがな、それうちとこの電気やゆうてきて」

「おお」

「これまで無断で使ってきたぶん、あわせて払えゆうてきてん」

「その電源、隣のビルの壁についとったん?」

「そうそう」

「むきだしの電源が」

「そうそう、電源あったらふつう差すがな。電源が誰のもんとか電気が誰のもんとか、そんなん考える? 電気なんかみんなのもんやろ普通」巻子はジャッキーカルパスの包みをぱりぱりと剥がしながら言った。「ママぶちぎれて大騒ぎやがな。知ってた知らんかったの言いあいになって、んでそれからじっさいに払うか払わんの金額の話になって」

「なんぼくらいになるん、そういうの」

「店な、シャネルじたいはあそこでもう十五年くらいやってるねんな。そやから、一日数時間ぶん掛ける、十五年ってことになって」

「ほう」

「二十万現金で払えって話になって」

「えっ、ちょお待って」わたしは中腰になって体をひねり、机のひきだしから電卓を取りだした。「二十万割る十五……一年で一万三千三百ちょっと、それ割る、十二で一ヶ月が千百円くらいか……でもいきなり現金で二十万とか泣くわ」

「そうやねん、んで電源がそこしかないからさ。揉めてそこが使われへんようになったら、それはそれでうちらも困るやろ。あんまおおごとにせんとこゆうてんねんけど、ママにしたら二十万なんかどこにあるねんゆうてめっさキレてる。ほかにも女の子らのあいだでもまあこれが揉めごとがあってさあ、じつは三ヶ月くらいまえに、ずっとおった女の子がやめてしもて……なあ、ちょっとテレビみよか。つけてもええ?」

 わたしはCDを止めてテレビのリモコンを巻子に渡した。電源を入れると、ぶうんというかすかなうなり声をあげてテレビの画面が明るくなり、バラエティ番組が映った。テレビはここに来たとき、リサイクルショップで四千円で買ったものだ。

「こないだ電器屋で初めて液晶テレビみてんけどな。びびるで、めっさ薄いねん。それがなんぼすると思う。百万。誰が百万も出してテレビ買うねん。金持ちが買うんやろな。さっき風呂でもゆうたけど、画面めっさ黒かった」巻子はチャンネルのボタンをぽつぽつ押しながら、んで話なんやったっけ、とわたしの顔をみた。

「店やめた人の話」わたしはジャッキーカルパスを齧って言った。「名前なんてゆいはったっけ、けっこう長い人よな、巻ちゃんよりも長い人」

「そうそう、スズカな。五年くらいおったかな。韓国の子でな。店のことなんでも知ってるし、じっさいに店まわしてたんスズカやしな。長かったわな」

「んでその長いスズカは、なんでやめたん」

「スズカがやめる二ヶ月くらいまえにな、新しいバイトの子が入ったんや。その子、中国から来た子でな、留学やゆうてたけど、どこの学校かは知らんけどまあ勉強しにこっちの大学に来てて、募集みて来やってん、お金いるしってゆうて」

「アルバイト雑誌のナイトページやな、そこだけダークな色してる」

「そうそう、んでその子ジンリーってゆって、普通の子やねんけど、黒髪で色白で化粧っ気もなくて大学生やろ。ママがえらい気に入ってもうて」

「まあ、笑橋にはおらんタイプやな」

「な。韓国の子はそこらへんにおるけど、中国の子はまたちょっと珍しいよな。でもべつに何ができるわけでもなくて、基本、座ってるだけやねん。日本語も片言やし、そやけど客もなんかまあ珍しいしでジンリーをちやほやするやん。

 それはそれでええねんけど、スズカにおばはんどっか行けやとか、酒がまずなるとかそういうジンリーを褒めたいがためにスズカを落とす、みたいなノリで言うてくる客もちらほらおって。まあスズカも古いしそんなんなんぼでも流せるけど、基本座ってるだけのジンリーにたいして、スズカはもともと苛々してるわけよ。んでその雰囲気見たママにさ、右も左もわからんなかで稼ぎに来てるねんから、あんたが面倒みたらんでどないするんや言われて、それはまあせやな、みたいな感じでまあ、なんとかやってたんやけど」

「スズカて何歳なん」わたしは訊いた。

「三十過ぎとか?」巻子は言った。「まあ、わたしよりはそらずっと若いけど、まあ言うたら若くはないやんか。それに昔から水商売してるしな、苦労もしてるからやっぱり年いってみえるしな。最初会ったときおない年くらいかな思ったもん。

 んでいつやったかな、店が坊主のときあって、うちら三人でおったんやな。ママはまだ来てなかったかなんかで、うちらしかおらんかってん。んで暇やな、とかなんとか言いながら、ジンリーに中国の話とか聞いとってん。『ジンリーって漢字どう書くん』、『静かなお里と書きます』とか」

 巻子はジンリーの日本語のイントネーションを真似して言った。

「中国ってやっぱ厳しいん? とか、やっぱ中国ってお金ないんか? とか。ほんまにあんな人民服着てまだいっせいに自転車乗ってんの、とか。ネスカフェのインスタントコーヒーの空き瓶にウーロン茶入れて飲むんがブームって昔テレビで見てびびってんけどまだそんなん? とか。

 そしたらジンリーは、そうですそうです、いま北京オリンピックとかいってますがあれは嘘、ちょっとの人だけの話で、ほとんどの人はお金なくて大変、お金がないからごまかすし、技術もないからこのあいだの四川の地震で学校が崩れて子どもたちがたくさん死にました、トイレにはドアもないし、わたしの生まれた村なんて道路も家も牛も人間も一緒です、日本みたいな清潔で豊かな国になりたいとみんな思ってる、憧れてます、みたいな話になって。

 ほかには政治の話っていうか、コキントウやっけ、わたしよお知らんけどいま偉くなってるそっちじゃなくて『わたしたちの心に永遠にいるのはトウショウヘイ先生なんです』とかゆうて胸に手あてたりとかしてな。わたしらそんなんピンとこやんけどもさ、まあそんなこと話してるうちに、ジンリーの家の話になって、実家もそうとう貧乏やねんてな」


お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤—生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』発売を記念して、本日7月26日18時半から、ジュンク堂池袋本店にて、サイン会が開催されます(こちらから)。

人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

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夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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